El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか

「親子か兄弟か」 血族内の権力継承はたいていこれでつまづく

鎌倉幕府の源氏将軍は頼朝-頼家-実朝の三代、1192年から1219年の27年で断絶した。三代実朝に子がいなかったことが第一の原因だが、本質は根が深い。そもそも頼朝の権力基盤が関東の武家集団の均衡の上に成り立っていたことそのものが原因とも言える。

頼朝には北条政子との間に頼家と実朝という二人の息子がいた。均衡のために、頼家を比企氏お抱え、実朝を北条氏お抱えみたいな形にしたことで、比企氏と北条氏が両立しえない関係になった。頼家からその子へと直系で将軍が継承される(比企プラン)ことを阻止するためには頼家の子が小児のうちに断絶させなければならない(北条プラン)。そのために在位4年で頼家の重病をきっかけに「比企の乱」が引き起こされ、頼家の子(一幡:5歳)、さらには将軍頼家自身(22歳)が北条義時によって殺されることに。

そして北条氏の目論見どおり実朝が3代将軍となったものの、なんと15年後、頼家の子、公暁(こうぎょう)に暗殺されることに。以後、摂家将軍・親王将軍という名目だけの将軍が続き鎌倉幕府は実質的に北条氏が支配することになる。

後の、織田信長、豊臣秀吉にしても血族内の継承はなかなか難しい。継承候補が少なければ断絶しかねないし、多ければ内紛のもとになる。そう考えると、徳川300年はすごい。家康の子だくさんと御三家などの制度整備、さすがだ。というか歴史を学んでいたんだろうな。

しかし、頼家から実朝のタイミングで北条義時(小栗旬)が残虐であったことは否めない。大河ドラマでそこがどう描かれるのか・・・。

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