El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

窯変源氏物語(9)

㉟若菜(下)・㊱柏木

残り6冊。ぎりぎり今年のうちに読み終えそう。全体の分水嶺といえる「若菜」(上・下)。

㉟若菜(下)・・<読書中>圧巻の女性たちによる雅楽セッション。読み応えたっぷり、そして源氏の到達点は・・・

理想とは、何だったのだろう?
「理想とは、その狩り求め追い立てる状態をこそ呼ぶのだ」とは言わなかっただろうか?
その狩りを遂えてしまった者の後は?
狩りに出て、仕留めた獲物のその後に放つ匂いは、腐臭。
それを知る狩人の手は、汚れに犯されぬほど、勁(つよ)い。
偽りを踏まえて立つ理想のその先は?

柏木・・

古寺行こう(34)相国寺 行ってみた

美術館として楽しめる寺「相国寺」

「古寺行こう」全40巻完結!、2年にわたって定期購読した「古寺行こう」完結しました。実際にこのガイドブックを持って出かけたのは現在11回。全40巻のうち京都・奈良・大阪が33巻なので、まずはこの33巻のうち行けていない古寺を少しずつ訪ねていきたい。

というわけで、平日休みをとって第34巻の京都御所北側の「相国寺」に行ってきました。足利将軍家菩提寺でして、金閣寺・銀閣寺もこの臨済宗相国寺派の寺なんですね。

相国寺には「承天閣美術館」という美術館が附設されていて、ここに若冲と応挙の大作が見学しやすいかたちで展示してあり、かなり楽しめます。

円山応挙「七難七福図巻」

若冲「釈迦三尊像」

中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国:清末~中華民国

清末 中華民国

前半は、清 vs 太平天国や義和団の乱。特徴はある程度成功するとすぐに内部分裂を引き起こすこと。その後は清朝内部の改革派(洋務派)のあたりまでは、日本を見習って改革をすすめようと日本留学熱などあったのだが・・・伊藤博文ら日本首脳は清が立てなおることよりもグチャグチャになることで火事場泥棒的な利益を得ようとする。そんな明治のころのボタンの掛け違いが1945年の敗戦につながるんだな・・と。

中盤は、国民党による清朝打倒による中華民国成立、その一方でロシア革命を受けての共産主義勢力の拡大、そして日本は・・・

日本の外交姿勢は、国民革命の展開や中国ナショナリズムの高揚という現実を認識せず、強圧的な態度で権益の確保をゴリ押しするものだった。これに二度にわたる山東出兵や張作霖の爆殺事件が加わり、中国国内の親日派が活動できなくなる程の影響を与えた。それまで主として英米に向けられていた中国のナショナリズム運動は、一気に日本をターゲットとし始めたのである。

そして日本のあまりに傍若無人な侵攻についには犬猿の仲、蒋介石と毛沢東が手を結ぶことに。

日本は中国の最期のひとかけらの土地まで占領しなければ戦争を終結できない。対中国戦では武力で首都を占領しても、中国の命運を制することはできない。(蒋介石)

他国への侵略戦争の終結について、日本や日本軍はきちんとしたコンセプトがあったとは思えない。将来展望なんてないままのなし崩し的侵略。ロシアのウクライナ侵攻と同じように引くに引けずに窮したわけではある。

最終章のおまけ的ないくつかのエピソードが初耳が多い。「にっぽん音吉」「霧社事件」そして現在の中国は「ジャイアンになったのび太」と書くが、過去の日本もそうだったような。

ごまかさないクラシック音楽

やはり、そうだったのか「クラシック音楽」

岡田氏は音楽学者(1960年生)、片山氏は政治思想史研究者(1963年生)。二人がクラシック音楽の歴史を世界史との関連の中で語りつくします。

「クラシック」と言ったところでせいぜい18-19世紀のヨーロッパの音楽にすぎない。それがちょうど西欧の世界制覇と重なったために、世界中の音楽が「クラシック」の表記法になってしまって・・・・云々から始まる対談。

「西洋音楽」というものが、いわゆる西側自由主義陣営の文化的象徴だったことは明らかであって、今こそ非西欧、いわゆる「ユーラシア主義」的な視点から、20世紀音楽史をどう見るかが重要になってくる。(P246)

「クラシック音楽」は「西欧の音楽」、つまり西側キリスト教圏の音楽なのだと改めてわかります。もちろんそこにはプロテスタントも含まれる。要するに旧西ローマ帝国圏の音楽。旧東ローマ帝国圏、つまりロシア正教圏はその「外」にある。逆に言えば、ロシアや東洋の音楽には「アンチ西」の怨念が伝統として流れているのかもしれない。

 近代市民社会の音楽としてのクラシックは、やはりウィーン古典派から始まる。市民社会と啓蒙主義の始まりとほお同時。それより前のバッハの時代は、まだまだ王権とか宗教の方が前面に出ているのに対して、作曲家の個人意識がハイドンやモーツァルトにははっきりある。これがベートーヴェンに至って盤石になり、やがて「僕の悲しみと喜び」といった内面感情が至高のものになる。ロマン派へ行く。ロマン派は「個人至上主義」という西欧的価値観の音楽です。(P254)

 19世紀ロマン派は制限選挙の時代のブルジョワ・エリートの音楽だった。しかし彼らは第一次世界大戦前後から没落し始める。(P258)

業界的には「このジャンル、もう終わってない?」と認めるわけにはいかないから、なんとか蘇生措置をしなくてはいけない。あらゆる戦略を動員して、そのジャンルが生きているように演出しないといけない。(P321)

といわけで、18世紀後半から20世紀前半の音楽であったクラシック。それはアメリカの音楽の時代とともに音楽としての主役やジャズやポップスに譲ってしまう。言ってみれば、日本における歌舞伎のような過去に隆盛を極めていまでは細々と続いているコンテンツということか。ところが小さいころから音楽の授業でそんなこと教えてくれないので、クラシック=音楽のメインストリームと思い込んできたわけ。うすうす、感じては来ていたけどクラシック愛好家である二人の対談でまさにクラシックを相対化でき、幾分かはすっきりした。古典落語を聴くようにクラシックも聴けばよい。