El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

光の犬

ひとつひとつの出来事がレミニセンス

光の犬

光の犬

 

プロローグ含めて24の断片的エピソードの積み重ねで語られるある家族(血筋)の誕生から終焉までの物語。だれが主人公というわけではないけれど、作者と同じ年齢(1958年生まれ)である添島始の視点が作者の視点と考えるとわかりやすい。

24の章の配置が時間倒叙的であるだけでなく、それぞれの章の中でもたびたび時間が倒置されているが、それが結構効果的。もし時系列に沿って書かれていればおそらく一人の視点でしか読めなかったのではないだろうか。ところが、語り手も時制も連続していないので、読者は常に「今」という視点で読むことになり、その「今」の語り手に感情移入できる。

ただ、こういう書き方に慣れていない読者のためには登場人物のざっくりとした年代感は押さえておいたほうが読みやすい。添島始の祖母よね(明治34年-昭和32年)、よねの4人の子供(一枝・眞二郎=始の父・恵美子・智世)は昭和一桁から15年の間の生まれで物語の終盤80代)、そして眞二郎の2人の子供である長女・歩(昭和29年生-昭和の終わり頃死去)、長男・始(昭和33年生-物語の終盤、60歳くらい)。

私は始と同年代であり彼が終盤直面する親世代の高齢化・介護の部分がリアルだった。一方で、眞二郎の姉妹問題は、たしかにあの世代は産めよ増やせよ世代で兄弟が多く、彼ら彼女らがちょうど今2010年代に80代に突入している、まさにわが母の問題でもある。歩と始は学園紛争後のややノンポリ核家族世代でまさにわれわれ世代。そうした社会背景も声高にではないが盛り込まれているのは作者の実人生の反映か。

多くのエピソードがまさに「それってあるある」と身につまされてしまった。読者だれもが「ああ、ここは私も同じだ・・」と思えるだろう。そうした中で血族としての添島家は消滅していく。そもそも、そうしたものを維持するような社会でもなくなっているのだろう。私自身、親の老後の世話の義務は感じているが自身の老後は自分でなんとかしなくてはならないと感じている。家族主義から個人主義の社会へ、若い頃からその変化を感じてはいたが、その転換点が明らかになるのは家族主義の最後の世代が死んでいく「今」なのだろう。

身につまされて、あまり文学作品としては読めなかった、というより、まるで自分の手記を読むような感覚にさせてくれたことこそ真の文学か・・・。