El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ジャズ超名盤研究(全3巻)

まさに日本発の「Encyclopedia of Modern Jazz」

ジャズ超名盤研究

ジャズ超名盤研究

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著者の小川隆夫氏は1950年生まれの整形外科医。77年に東京医大卒業後81-83年にニューヨークに医学留学。留学中にアート・ブレーキー、ギル・エヴァンス、デクスター・ゴードンなどのミュージシャンの知己を得、帰国後は医業のかたわら、音楽プロデューサーやジャズ関連の著作多数。さらには2016年には自らのバンドも結成という異色かつ、多彩・多才な経歴。

全3巻で各巻500ページの大部で辞書のような本。3巻全体でで100の名盤を取り上げるが名盤1枚あたり15ページという情報量はすごい。じっくりと読みながら聴き進めていく予定。

ジャズ超名盤研究 2

ジャズ超名盤研究 2

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ジャズ超名盤研究 3

ジャズ超名盤研究 3

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友だち

メタな構成で深みが増し増しの不思議な小説

冒頭から、自殺した男友達(恋人?)が飼っていた巨大な犬(アポロ:グレート・デン)を託された女性である「私」の独白が続く。文学の教師であること、作家であること、読む人であること。文学や自殺についての多くの作家や哲学者の実話やことばが紹介されながら、アポロとの暮らしを通して、文学的思索・死んだ男友達との心のふれあい・アポロとのふれあい、それらが、メイ・サートンの日記にも似て淡々としながらも思索にあふれた記録文学として結実する、そんな感じだ。

それが第1章から第10章まで続き、「白紙のページを打ち破れ!」とだけ書かれた227ページを過ぎて、第12章へ続き、おそらくはアポロの死で幕を閉じる。(以下ネタバレあり)

ところが第11章だけはメタなレベルで書かれている。「私」は男友達を訪ね、男友達が自殺をはかったが未遂に終わったという話になり、その事件を自分の中で消化(昇華?)するために、自殺が未遂に終わらなかった(=死んだ)という仮定で小説を書いたという会話が、当の男友達と「私」の間で交わされる。

第11章があることで、自殺がなされたのが真実なのか(=11章がフィクション)未遂に終わったのが真実(=11章以外がフィクション)なのか、混乱する。どちらともとれる。ギミックとも言えるが、深みを与えているような気もしないではない。第11章をふまえてもう一度読んで見ようかという気にもなる。

リスボン大地震

ポルトガル史・イエズス会史としても秀逸!

地震の詳細 第1章 万聖節の日 第2章 秩序の回復 第3章 被害の詳細

リスボン大地震。1755年11月1日発生、死者数は東日本大震災とほぼ同じなので、当時の人口から考えると、数倍に相当する災害だったようだ。地震と火災と津波。

地震まで 第4章 ポルトガルの変遷 第5章 名ばかりの黄金時代

地震前のポルトガルの歴史。先んじた船と航海術により大航海時代の先駆。黒人奴隷の創始、国内での奴隷がポルトガル人の血の一部を作っている(!)。ブラジルからの金・ダイアモンドによる繁栄ー巨大建築、一方で人口流出による疲弊、異端審問など頑迷なカトリシズムが席巻した時代。

地震後 第六章 説教師と哲学者 第七章 不死鳥のごとく 第八章 啓蒙主義と独裁

キリスト教=すべてを神の御心に帰す時代への決別ーそのために破壊は必要だった。カルヴァーリョが主導する復興、啓蒙主義の時代、しかしやがて独裁へ。

カルヴァーリョは、災害は国家を利するものに転換できるだけでなく、事実、国家にとって必要不可欠なものであるという意見を述べている。「国家を根底から変革する要因が常に政治的なものであるとは限らない。恐るべき自然現象が帝国の様相を一変させてしまうこともしばしば起こる。こうした自然界の異常は、時として必要なものだということができる。なぜなら、それはほかの何よりも、世界にあまねく広がる帝国を断固として侵食しようとしている旧弊なシステムの数々を根絶するのに寄与してくれるからだ。・・・我々はこんなふうに言うことができるー国々の目を覆っている霧を払いのけ、真に有用な知識の光で照らし出すには、農地が荒廃し、都市が破壊されることも必要なのだ、と。」(P137)

東京が関東大震災、太平洋戦争で2度灰燼に帰したことで、常にリニューアルしてきたことを考える。再生のためには破壊が必要だということ。さらに廃墟に既得権を持つ者たちをいかに排除して新しい秩序をもたらすことができるのかということ。

カルヴァーリョの指導力で再建なったリスボンであったが、歴史の流れは再生リスボンも容赦なく押し流していく。

カメラは、撮る人を写しているんだ。

禅問答になりがちな「写真とは何か」

実は、もっとぐっと写真に取り組もうとカメラを注文しているのだが・・・注文して一カ月たっても手に入らない。このあたりの事情は↓

そういうわけで、「丘サーファー」みたいに、写真を撮らずに写真を学ぶ、そんな状況が続いている。写真を撮るということはどういうことか、というテーマの本は、書店で写真・カメラのコーナーにいくと意外にたくさんある。

カメラの進歩、特にオートフォーカスの進歩で撮影者がしなくてはならないことは大きく変化している。技術は機械が補うので、何をどんな意図で撮るのかという部分こそが写真撮影のメインテーマになっているのだ。

確かに、子どもの写真でそれを撮っているであろう親の表情が見えてくるような写真がある。写真の中に、それを撮っている人の情念も記録されるわけだ。この本の表紙を飾る小橋めぐみさんは見てのとおり美しいのだが、この小橋さんを撮っている著者のワタナベアニさんの情念も見えてくるような気がする。

そんな写真をめざす、というくらいの理解で。

春のこわいもの

深川で読む、ちょっと不穏な短編集

下町、思い出逍遥。年に一度はお江戸深川を歩く。今年は3月15-16日、江東区芭蕉記念館、そして懐かしい深川図書館、住んでいた頃はずいぶんお世話になりました。久しぶりの深川図書館、2時間の滞在で読んだのは川上未映子の短編集「春のこわいもの」。6編からなる短編集のうち4編まで読んだところでタイム・アップ。続きはAudibleで

コロナの時期に書かれた文章が多い。どの作品も一筋縄ではいかないねじれた不穏感でAudibleの朗読の岸井ゆきのさんの声はマッチしている。こういう短編で力をつけて「黄色い家」に結実したのか・・・。

雨の日はソファで散歩

14年前の過去の自分に再会、長く続けているとこんなこともある

なんだか、最近書店で見かけて買ってしまい、半分ほど読んだところで昔読んだことがあったような気がして、何気なく自分のブログを検索したところ・・・ブログにも書いていた・・・↓ うーむ

「大酒大食の話」の中に菅茶山の書いたものとして

「すべての酒は小杯にて一日半日ものむは、覚えず量をすごして つもりては病をなす、大杯にておのれが量だけ一度に飲むものは、酒の力一時に出つくす故に害なし」。P100

2合なり3合と自分の量を決めて、サクッと飲んで終わりにするということだろう。盃でさしつさされつでは、量が把握できずいつの間にか過ごしてしまう。自分は、日本酒で言えば、現在は2合。120mlのコップ酒なら3杯という自覚はある。

こんな具合に、単なるウンチクではなく、種村先生の読書に由来する膨大な知識がベースになる話がいくつもいくつも連ねられる。最初は、出典が何か、なんてことに気をとられてペースがつかめないが、読み進んでいるうちに種村節がなじんできて、ああもう一冊読みたいな、とそんな気分に。→というわけで「江戸東京≪奇想≫徘徊記」を買うことに。

黄色い家 Audible

とにかく凄い!川上未映子にしか書けない女子目線の底辺小説

女子目線の底辺小説。このジャンルはいままであまりなかった。

ともかくリアリティがある。川上未映子はwikiによると「大阪府大阪市城東区に生まれる。大阪市立すみれ小学校、大阪市立菫中学校を経て大阪市立工芸高等学校でデザインを学ぶ。高校卒業後は弟を大学に入れるため、昼間は本屋でアルバイト、夜は北新地のクラブでホステスとして働いた。」とある。水商売にしても金銭感覚にしても経験なくしては書けないことではないか。(とにかくすごい小説だ)ビブ姐さんの「金の論理」サイコー!

「水車小屋のネネ」のような善人村、綿矢りさの描くぬるま湯村、女性が書く小説があるが、自分にとってリアルなのはやはり弱肉強食の川上未映子ワールド・・・なのだと思い知る。20時間のAudibleを1週間で駆け抜けた・・・