El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ジジイの片づけ

じいさんの断捨離・終活本があってもいいじゃないか・・・

女性の断捨離が人生の半ばで先を見据えてであるのに対して、男性の断捨離はどちらかというと終活めいてくる。画家・イラストレーターで文章も書く沢野ひとし氏(本の雑誌のカットなどでおなじみ)は80歳くらいなので、まあ終活本といってもいい。

男の終活はとにかく「片づけ」なんだなあ。毎週、引き出しひとつ、本棚の一区画、片づけていく。そして最後には何もなくなるわけ。

私自身も、冬から春に衣替えをしたが、60代後半になって着るものが単純化してきて、壮年期のものはどんどん捨てて行かなくてはならない。スーツにネクタイにカッターシャツ、このあたりはもう礼服だけ。年1,2回の同窓会くらいはそのたびに新調するくらいでちょうどいい。

そんなことを考えさせてくれた。

ブックガイド(123)ー60歳すぎて臨床にもどる!ー

https://uuw.tokyo/book-guide/

気楽に読める一般向けの本で、アンダーライティングに役立つ最新知識をゲットしよう。そんなコンセプトのブックガイドです。第123回目のテーマは「医師の転職」。保険業界に働く医師は臨床の現場を離れて、あるいは逃れて来たというパターンが多いと思いますが、さていざ定年が近くなってくると、定年のそのあとは?と考えたときに「臨床にもどる」という選択肢も当然あるわけです。

精神科医で「こころの問題」でマスコミに登場することが多かった香山リカさん。立教大学の教授になっていたので、もう医者はやらないんだろうなあと思っていたら大間違い。ここ数年お見かけしないと思っていたら、180度の方向転換して精神科医にもどる・・・というよりもさらに90度くらい転換して、なんと北海道で総合診療医を始めているらしいんです。

その顛末、それに自身が医者になったころの思い出話などをからめて一冊の本にしました。それがこの本「61歳で大学教授やめて、北海道で『へき地のお医者さん』はじめました」。

北海道勇払郡むかわ町という"へき地"で町立診療所の医師をやっているんですね。なぜそういう選択をしたのか、なぜ北海道のへき地なのか、それになぜ60歳なのか・・・そのすべてが本書で明かされます。きっかけは、誰にもある、今ここではないどこかで、今と違う何かを・・・という部分ももちろんあるようです―いわゆる「中年の危機」。香山リカさんはそんな年ごろにおいて、いくつかのきっかけ(母の死や、アフガニスタンでの中村哲先生の死)から「私だけのうのうと生きている」との気持ちに。さらにコロナもあってじわじわと臨床への回帰心が芽生え始めます。

体を鍛えたり、失効していた運転免許を取り直したり(へき地には車が必須)、そして何よりもアップデートした医療知識を得るために母校(東京医大)での研修を受けたり。教授業務で多忙な中にそうした新たな挑戦のための準備を織り交ぜて、少しずつ少しずつ準備を整えて行きます。またなぜ北海道のへき地なのかという話では、その地で見つかった恐竜の化石の話と理系好きの高校生だった自分の過去がシンクロして、そのころから閉じ込めていた熱い思いを再び発見するにいたります。

そしてついに北海道に赴任し、東京との二拠点生活をはじめた香山さん。好きなことに没頭しながら、町民たちとも濃密にかかわる日々の始まり始まり-というところまでの話が描かれます。香山さんいわく「来年の自分がどうなるか、自分でもわからない。そんな楽しくてぜいたくなことがあるだろうか」という言葉にもすがすがしいものが・・・・。

と言いながら・・・これを書いている査定職人ホンタナも一年前に65歳の定年をむかえました。そして一念発起し、いまは老健施設長として臨床の世界にふたたび足を突っ込んでいます―ちょっとだけすがすがしい!?

そしたら長年続けてきたブックレビューが仕事にも役に立つんですね。それは本当にびっくりです。そういった臨床ネタも含めてまだまだブックガイド続けていきますよ!(元査定職人 ホンタナ Dr. Fontana 2024年4月)

正義の弧(上・下)

ハリー・ボッシュ シリーズ最新刊に歳月を感じる

姪の結婚式で石垣島へ。その旅路に読み始め没頭

「BOSCH:ボッシュ」シリーズは第一作「ナイト・ホークス」原著刊行が1992年1月、コナリー35歳、ボッシュは1950年生まれの設定で当時40代前半、訳者の古沢氏は34歳、読者の私は35歳。つまり、作者も訳者も読者もほぼ同年代で少し年上のボッシュの活躍を追いかけてきたわけだ。ボッシュも70代、膝は手術をしたようだし、この巻では白血病であることもわかった。ボッシュの30年をこの3年でずっと読み続けてきたことになる。ついに未読のボッシュはなくなってしまった。

ここ最近は、DNAを中心とした新しい捜査方法で古い未解決事件が解決するというパターンが多いが、そんなケースでも結局はボッシュの(そしてバラードの)勘や正義感なしでは物語は動いていかないわけで、結局は「人」なんだなと、あらためて思う。

 

テスカトリポカ

ナルコス+アステカ+臓器売買

メキシコ麻薬戦争+世界のナルコス(=ドラッグ・マーケット)、そこに関わる日本人、そんな群像をフィクションで読む。フィクションながら、いやフィクションだからこそ、以前読んだドキュメンタリー「ナルコスの戦後史」↓をよりリアルに感じられる。

そこに、ラテンアメリカ特有の征服民・被征服民という構造がからんで、アステカの怨念が混乱する社会を作り出していく。実際問題として、人種間の混淆がすすむラテンアメリカにおける人種問題は、日本人には想像がつかない。

と、聴いていたら舞台は日本へ。メキシコを逃れて流れ着いた女性が産んだ混血のコシモとメキシコ麻薬戦争で敗北を喫して脱出してきた男が日本で出会う。その出会いには東南アジアにおける臓器売買というブラックビジネスが関わっている。

臓器売買における「心臓」と、アステカのいけにえの「心臓」を捧げるところがシンクロする。と、まあ、荒唐無稽にはなっていくものの、裏社会のビジネス繁栄のうらに滅亡したアステカの呪いを重ね合わせてつきすすむクライム・エンターテインメント。

南米の征服された民族のうらみつらみが現代社会に犯罪として吹き出ている、というアイデアは初めてきいたが、そういう説があるのかないのか・・・・。(直木賞受賞作)

ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者

Prudentでないこと

アカデミー賞を獲得した映画「オッペンハイマー」を近日中に鑑賞予定。あえて、この映画の原作ではなく、日本人(九州大学出身の物理学者・著述家)が書いた評伝を読んでみた。オッペンハイマーの頭の回転の良さと、prudentでないこと(無邪気さ)の組み合わせがくっきりと描かれており、人生においてprudentでないことの良し悪しを考えさせられる。

Prudent=いい意味では慎重で思慮深いさま、であるが、ここでは「世知に長けていること」「計算高いこと」。オッペンハイマー自身はprudentでないことが美徳であると考えていたように読める。

世間のprudentに充ち満ちた政治家や科学者との関わりの中で、pure?naive?なオッペンハイマーが、原爆を作り、広島・長崎に落とすことを阻止もできず、結局は核に充ち満ちた今の地球を生み出したことの皮肉。

それにしても終戦の一カ月前にやっと実験に成功して、そのすぐあとにボロボロの日本に2発も落とす必要性はどう考えてもなかった。特に、2発目はプルトニウム型を実験したとしか思えない。

日本人としては、そこまでがすべてで、その後の水爆反対やレッド・パージは正直どうであろうと、許せないことに変わりはない。のほほんと映画を見に行っていいものか少し迷う。無邪気な科学者でも結果責任から逃れることはできない。

オッペンハイマーは巧妙な人間操縦の手腕をふるったのではなかった。オッペンハイマーの武器は、迅速果敢、的確無比の理解力であり、おどろくべき記憶力であり、絶えず議論を最も重要な地点に押し戻し集中する確かな感覚であった。そして、他人の窮極的な善意を信じるオッペンハイマーのナイーヴさが、他人を操作する術策に代わる役を見事に果たすのを、サーバーは新鮮な驚きをもって見守った。(P182)

人間の心には、誤解、無知、愚昧、傲慢が幅をきかしうること、これはロバート(=オッペンハイマー)も理解したが、窮極的な邪悪さの存在は信じなかった。しかし、この世には邪悪が確かに存在する。ロバート・オッペンハイマーは、その事実をしたたかに学んでから世を去ったはずである。(P183)

シカゴの物理学者たちが示した軍人に対する警戒心と敵意を、オッペンハイマーはなぜ示さないのか。それは思想の問題ではなく、少年のように不用心な他人への信頼感から出ていることをグローヴスは感知した。(P189)

原爆地獄への想像力が書けていた。そして、それが人間というものである、と私は考える。人間は想像力の欠如によって、容易にモンスターとなる。(P195)

広島からの記録フィルムを見て初めておのれの罪業をさとった愚者であったとしたら、私たちの無罪性も、それと共に揺らぎはしないのか。(P212)

追記 2024年4月17日映画を見てきた↓

族長の秋

<マジック・リアリズム >4月は「族長の秋」

ラテンアメリカ文学のひとつの分野として確かにある「独裁者小説」。それをガルシア=マルケスが書くとこうなる。独裁が達成されるまでのことはほとんど書かれておらず、その独裁のマイナスの面がたくさんあって、それが結局は独裁者の末期(まつご)に関わってくる、独裁とは結局割に合わない。心の平穏を得られない、ということはよくわかる。

とはいえ、時間軸や話者は誰なのかなどが、はぐらかすようにずらして書かれているので、そこはかなりマジック・リアリズム的。その混沌感がガルシア=マルケス的なのかもしれない。個人的にはバルガス=リョサが描く独裁者「チボの狂宴」のわかりやすさを推したい。

女ぎらい ニッポンのミソジニー

日本で正しくフラットに生きて行くためにはミソジニーからの脱出が必要

<読書中>日本人の男はほとんどが「女ぎらい」の「女体ずき」・・・うーん、身もふたもないお言葉。そこから脱出してどうしたらフラットな関係を築けるのか!?