El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者

Prudentでないこと

アカデミー賞を獲得した映画「オッペンハイマー」を近日中に鑑賞予定。あえて、この映画の原作ではなく、日本人(九州大学出身の物理学者・著述家)が書いた評伝を読んでみた。オッペンハイマーの頭の回転の良さと、prudentでないこと(無邪気さ)の組み合わせがくっきりと描かれており、人生においてprudentでないことの良し悪しを考えさせられる。

Prudent=いい意味では慎重で思慮深いさま、であるが、ここでは「世知に長けていること」「計算高いこと」。オッペンハイマー自身はprudentでないことが美徳であると考えていたように読める。

世間のprudentに充ち満ちた政治家や科学者との関わりの中で、pure?naive?なオッペンハイマーが、原爆を作り、広島・長崎に落とすことを阻止もできず、結局は核に充ち満ちた今の地球を生み出したことの皮肉。

それにしても終戦の一カ月前にやっと実験に成功して、そのすぐあとにボロボロの日本に2発も落とす必要性はどう考えてもなかった。特に、2発目はプルトニウム型を実験したとしか思えない。

日本人としては、そこまでがすべてで、その後の水爆反対やレッド・パージは正直どうであろうと、許せないことに変わりはない。のほほんと映画を見に行っていいものか少し迷う。無邪気な科学者でも結果責任から逃れることはできない。

オッペンハイマーは巧妙な人間操縦の手腕をふるったのではなかった。オッペンハイマーの武器は、迅速果敢、的確無比の理解力であり、おどろくべき記憶力であり、絶えず議論を最も重要な地点に押し戻し集中する確かな感覚であった。そして、他人の窮極的な善意を信じるオッペンハイマーのナイーヴさが、他人を操作する術策に代わる役を見事に果たすのを、サーバーは新鮮な驚きをもって見守った。(P182)

人間の心には、誤解、無知、愚昧、傲慢が幅をきかしうること、これはロバート(=オッペンハイマー)も理解したが、窮極的な邪悪さの存在は信じなかった。しかし、この世には邪悪が確かに存在する。ロバート・オッペンハイマーは、その事実をしたたかに学んでから世を去ったはずである。(P183)

シカゴの物理学者たちが示した軍人に対する警戒心と敵意を、オッペンハイマーはなぜ示さないのか。それは思想の問題ではなく、少年のように不用心な他人への信頼感から出ていることをグローヴスは感知した。(P189)

原爆地獄への想像力が書けていた。そして、それが人間というものである、と私は考える。人間は想像力の欠如によって、容易にモンスターとなる。(P195)

広島からの記録フィルムを見て初めておのれの罪業をさとった愚者であったとしたら、私たちの無罪性も、それと共に揺らぎはしないのか。(P212)

追記 2024年4月17日映画を見てきた↓