綿業が巨大産業化していく中で、それをコントロールしているのはリヴァプールやニューヨークの「商業資本」家になっていく。原料生産地(奴隷労働=戦争資本主義)と製品の市場を、商人がつなぎ情報収集力や政府への圧力などでコントロールするようになっていった。
さらに、商人が資本金を集めそれを投資するーと書けばきれいな話に見えるが。実際は資本の流れによって対立するように見える要素ー賃金労働と奴隷制、工業化と産業空洞化、自由貿易と帝国、暴力と契約ーを組み合わせて回転させる。資本は信用貸しされるのだが、多くは奴隷が栽培する商品の先物か、奴隷そのものの価値を担保とした。つまり、奴隷はその労働作物と自身の二重の価値を奴隷所有者から奪われていたわけだ。
労働者としてのみならず担保として使われた奴隷のおかげで、資本と綿花の流れが円滑になり、それまでにない速度で世界中をめぐっていた。商人、ひいては産業資本主義国は世界の田園地帯を自国企業への原料供給地にすると同時に、自国企業の製品の消費地にしようともくろんだ。労働力を求めて自国の田園地帯を変貌させてきた国が、その経験を世界のほかの場所にも応用しようとし、そのような特殊な形の統合をまさに「自然の法則」であるかのように仕立て上げた。
アメリカ合衆国は世界のどの地域とも異なり、戦争資本主義と産業資本主義を同じ国土に取り込んでいた。とはいえ、いかなる政治的連合も、両システムの相反する政治勢力を永遠に抱え続けることはできない。奴隷制と産業資本主義の組み合わせがコスト増と減益につながることが浮き彫りになり、1861年混乱は発火点に達し、勃発した南北戦争がグローバル資本主義の歴史にとっても転換点となっていく。
アメリカ南北戦争が歴史の分岐点。1850年代当時、多くの人々の見解は、グローバルな経済成長のためには身体的強制が不可欠であるという点で一致していた(=奴隷制度が必要)。しかし、「奴隷労働のシステムは安心して頼れるものではなかった」という不安や、「南部の繁栄は300万~400万人の人間を奴隷状態に置くというとてつもない大罪の上に築かれたと言っていいだろう」という罪悪感が根底にはある。奴隷よりも市場が必要な工業化しつつある北部と奴隷が必要な南部の反目が衝突。
南北戦争によって、南部の綿花輸出量が大きく揺らいだことを受けて、世界における「取引の革命的近代化」を進める結果となり、なかでも先物市場が正式に確率された。綿花飢饉=原料綿花が入ってこないことでヨーロッパの綿糸綿布加工業従事者が困窮するようなことも。そこから、まずは原料供給地として、さらには製品の市場として、植民地の獲得と、商品市場への国家の関与という新たな地平が果敢に切り拓かれた。(綿業資本家の支配する市場において、戦争の状況で乱高下する綿花価格から)南北戦争があらわにしたそれらの新しいグローバルな関係に驚き、こう記した。「価格の影響がいかに強く迅速に地球の裏側まで及ぶかを、われわれは知った」「自由とは主人のためにではなく賃金のために働くことを意味するのだ」と彼ら(解放奴隷)に教えることが必要だ!・・・やはり
解放奴隷から分益小作農へ。解放奴隷の家族が、日常的に監視されることなく特定の区画を耕し、地主から生活物資を受け取り、自ら育てた作物の分け前を報酬として受け取るようになった。こうして19世紀末には世界の綿花のほとんどを、農民が自分の土地か借地で、家族の労働によって栽培するようになる。これは、奴隷ではないがさほど自由でもない労働者たちの田園地帯の形成であった。
奴隷制の崩壊によって、賃金労働者という立場が低いゾーンに固定されて世界共通化していく。今に続く・・・