El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

資本主義だけ残った

共産主義の新解釈に説得力あり

一年以上の間、積読状態になっていた本。現実世界の変化が激しくて、ぼんやりしているとこの本に書かれた(きわめて刺激的な)多くの示唆も陳腐になってしまうかもしれないと読み始めた。

現在の資本主義を欧米の「リベラル能力資本主義」、中国を典型とする独裁強権型の国における資本主義である「政治的資本主義」とに二分して考える。この二分法は大澤真幸の「この世界の問い方」でも使われていたが、おそらく本書「資本主義だけ残った」を原典としたものだろう。

論点は4つ

①リベラル能力資本主義
欧米や日本の資本主義がこの「リベラル能力資本主義」。機会平等が建前だが、現在の状況をみてもわかるように次第に不平等が拡大している。それは(1)結婚行動や相続などを通して所得と富が世代間に継承され上位層が固定化する、(2)労働所得よりも資産が産み出す資本所得(不動産収入や株式)が増大して資産があるものがますます所得を増やす、などのメカニズムから生まれる・・・、とまあよく言われていることでもあり、新奇ではない。感じるのは、日本では一定の資産を持つようになってもやはり資産から資産を生み出すような経済行動はまだまだ少ないなあということ。これは、投資に臆病な自分への戒めにもなる。

②政治的資本主義
このパートが抜群に面白い。まずは共産主義の再定義。中国やベトナムのようなブルジョアジーが存在しなかった植民地化されていた国においては共産主義革命が欧米におけるブルジョア革命(フランス革命やアメリカ独立など)の役割を果たしたということ。つまり共産主義化は目標ではなく既得権益の転覆のための手段だったわけだ。つまり中国は共産主義・社会主義の国になったわけではなく共産党という王朝になったと考えるべき。毛沢東が王朝制度を確立しそれを受けて鄧小平が政治的資本主義を創設。政治的資本主義の実体は科挙の時代のエリート官僚による中央集権とかなり似ていて、党のエリートが地方の政治リーダーになり(ただし5年以内に異動あり)、自分の才覚でその地方の産業振興を行う。成功したら昇進してさらに大きな場所で同じことをやるーという感じ。それを繰り返して次第に党中央の要職につく。つまり、結構地方分権的な施策の実行を促しながら、それを指揮する官僚はきっちり党中央でコントロールするというメカニズム。もちろん地方ではその官僚が絶対的な権力を発揮するので腐敗・汚職はおこるが、それは必要悪としてときどき摘発する程度。

日本人としてこれを読むと「ああ、日本も本質的には政治的資本主義が半分入ってる」と思う。やはり中華文化圏の国だものね。しかし、このやり方がいま中国が力を入れている中東やアフリカで受け入れられるのか、という疑問は残る。

③資本主義とグローバリゼーションの相互作用<読書中>

④グローバル資本主義の未来