愚かさにもわけがある
一時期、認知バイアスにもとづいた「行動経済学」本がブームになり本ブログでもいくつか紹介した。本書を、なんで今頃、それもブルーバックスで「認知バイアス」という思いで手に取った。全9章のうち8章までは、これまで読んだことのある認知バイアスの話で、まあまとめにはなるけど、〇番煎じだなー、と思っていたところ最終の第9章でコペルニクス的転回があって、一転、読んで良かったに。
最終章のテーマは「認知バイアス」バイアス。つまり、「認知バイアスの存在を困ったことだとしてそれをさけるにはどうしたらいいか」と考えること自体がバイアスなんじゃないの。なぜなら、人間の本質的な認知力というのは草原でチータに襲われるとか、そういう危機を切り抜けるために、即応的あるべきだし、事前準備などできない状況でも、ともかくその場対応(ブリコラージュ)できるべきものだったはず。そんな認知能力にとって、言語ができたり農業化や産業化は、ある意味予測不能であったり、へたに前提条件を仮定すると痛い目にあったり。その原初的な認知能力と人間を取り巻く環境の間のズレが「認知バイアス」であると考えてみる。
そうすると「認知バイアス」を避けようとして逆にひどい目にあうこともあるのではないか、ということ。ではどうする、ということで「認知バイアス」の方向性を知って、それをうまく利用して「認知バイアス」にのっかることで、人々の判断・行動を良き方向にコントロールするという方法論(これを、肘でちょっと押してやるという意味でナッジと呼ぶとか)。例えば、運転免許の裏の臓器提供についてオプト・アウト(拒絶しなければ可と意思表示したことになる)にすることで、提供の意思表示を増やすというような例。
ITCやAI、手元ではスマホと技術革新はますます「認知バイアス」を引き起こす。バイアスを避けるのではなく、うまく利用してよりよき判断を・・・。と、締めたいところだが、多くのネット広告などはまさに、このナッジを悪用しているようでもあり、そう考えるといたちごっこですか