El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険

まあ、私自身は「できている」と・・

自治の領域を持ち、孤独を楽しむ そんな生き方

前半2章は、「哲学の学び方」の話が延々と続くので少々ダルいが・・・その後3章は読めなくもない。ただし引用をつなぎ合わせるような文章の運びは所詮、本物ではなく受け売り、という気がしなくもない。

私なりにまとめ直すと、抑鬱的快楽とは、<娯楽や刺激、おしゃべりで細かく時間を埋め合わせることで「快楽的なダルさ」に浸り、「やわらかい昏睡状態」となり、一抹の安楽を得る>というメンタリティを指しています。

スマホでスキマ時間を埋めて、孤独に自己と向き合うことをやめることで、安楽を得る。まあ、わかりやすい解釈だけど、それはそれでいいんじゃないか?電車や待ち時間を埋めることは。

単にスマホ中毒を糾弾するのではなく、そうしたものに惑溺することで不安や寂しさを埋めようとしている・・・そんな人が多い、という前提だが、ほんとにそうかね?という気もする。作者の世代はそうなのかも。リアリティのある職場ではスマホ使っている暇はないのでは?

著者が提唱するのは「孤独」と向き合うこと、その手段としての「趣味」ーここで趣味というワードはどうもヘンな感じ、むしろ修行のネター例えば楽器、菜園、読書 etc.

それを「自治の領域を持ち、孤独を楽しむ」というのだが、私のまわりにはそれはできている人が多い。世代の差かな。かなりスマホ中毒になっている若者が読めばもっと響くのかも。

ま、最後は人生、自分だけで楽しめればそれにこしたことはない。手前みそではあるが、自分自身は結構できているなネガティブ・ケイパビリティと思った次第。