El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

伊良子清白 「孔雀船」に魅せられて

第119回日本保険医学会特別講演から

伊良子清白

以前からあたためていた読書テーマ「伊良子清白」について30分の講演をやったので概要を記録しておきたい。

「漱石に保険を営業した診査医」

1.吾輩は保険に入らない!

生命保険協会のウェブサイトに「明治時代の生命保険事業について」 というコンテンツがある。明治150年を記念して2018年に作られたもので日本で初めて生命保険に入った人の話や日本で初めて保険金が支払われた人の話など興味深い。

このコンテンツに夏目漱石の「吾輩は猫である」(以下「猫」と略記)の中で苦沙弥先生(「猫」の登場人物、漱石の分身的存在)が生命保険に入る・入らないと問答するエピソードの一部が引用されている。私は「猫」を中学か高校の頃に一度読んだはずだが生命保険のエピソードはまったく記憶にない。そこであらためて「猫」を読み直しその部分(「吾輩は猫である」岩波文庫 )を抜き出してみた。

 

(苦沙弥先生の妻と姪の会話)

「こないだ保険会社の人が来て、是非御這入んなさいって、勧めているんでしょう、——いろいろ訳を言って、こう云う利益があるの、ああ云う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても這入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして子供は三人もあるし、せめて保険へでも這入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」

「そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合しからん世帯染みたことを云う。

「その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に這入る必要はないじゃないかって強情を張っているんです」

「叔父さんが?」

「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆いもので、知らないうちに、いつ危険が逼っているか分りませんと云うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を云うんですよ」

「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」

「保険社員もそう云うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長生きが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって」

「保険会社の方が至当ですわ」

「至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」

「妙ですとも、大妙ですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遥かにましだってすまし切っているんですよ」

「貯金があるの?」

「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ」

「本当に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃる方だって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」

「いるものですか。無類ですよ」


(場面かわって、苦沙弥先生と姪との会話)

「叔父さんは保険が嫌でしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの?」

「保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも這入る。女学生は無用の長物だ」

「無用の長物でもいい事よ。保険へ這入ってもいない癖に」

「来月から這入るつもりだ」

「きっと?」

「きっとだとも」

「およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金で何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん」叔母さんはにやにや笑っている。

主人は真面目になって 「お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気な事を云うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは当前だ。ぜひ来月から這入るんだ」

「そう、それじゃ仕方がない。だけどこないだのように蝙蝠傘を買って下さる御金があるなら、保険に這入る方がましかも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと云うのを無理に買って下さるんですもの」

という具合である。当時(「猫」連載は1905-1906年)、漱石は37歳、このあとの十数年の間にあの膨大な小説群を書いて1915(大正5)年12月に49歳10ヶ月の生涯を閉じる。漱石がこのとき保険に入ったかどうかははっきりしない。しかし、自分で書いた「人間の命と云うものは丈夫なようで脆いもの」を漱石自身が証明したわけで、もし保険に加入していたら保険会社にとっても予期せぬ早い死だっただろう。

生命保険協会の同じ資料 によると1881(明治14)年の明治生命の創業以降、明治時代後半に多くの保険会社が創業している。このころ起こった日清戦争(1894-1895)、日露戦争(1904-1905)が大きなきっかけとなって生命保険ブームがおこった。創業したばかりの保険会社にとってもこのブームは契約拡大の追い風だったということだろう。

とはいえ、結核や伝染病が重大な死因であった時代。この頃の危険選択はせいぜい体格、血圧、尿検査程度の情報だけで行われていたであろう。危険保険料はそれなりに高かったと思うが、「猫」に描かれた人びとの生命保険についての認識は現在とほとんどかわらないことは驚きだ。保険の営業の場で使われる保険の必要性についての話法も現在と大差がない。

さて、苦沙弥、いや夏目漱石に生命保険の営業をしたのはどういう人物だったのだろう。「猫」に書かれているように、その人物は漱石に「それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆いもので、知らないうちに、いつ危険が逼っているか分りません」「寿命は自分の自由にはなりません。決心で長生きが出来るものなら、誰も死ぬものはございません」と切り返しており、その弁舌からはただ者ではない・・・そんな予感がした。

2.詩人の日記に書かれていた漱石と保険

驚いたことに漱石に保険を売ろうとし人物がまったく別のところから判明した。ある詩人の日記 を読んでいたところ、その日記の中に偶然その詩人が「漱石に保険の勧誘をした」と書かれていたのを見出し驚いた。日記のその部分を引用すると

1906(明治39)年3月1日 木曜

(前略)午後麹町及四ツ谷に往診し転じて千駄木林町に長原止水氏を千駄木町に夏目漱石氏を(我輩は猫である)西方町に上田敏氏を歴訪し保険を依頼せしも皆不成功 長原氏は沈痛 夏目氏は洒落 上田氏は快活(後略)

確かに、千駄木町に夏目漱石を訪ね保険を依頼したが不成功と書かれている。漱石が「猫」を「ホトトギス」に連載していたのは1905年1月から1906年8月にかけて。先に引用した「猫」の保険のエピソードは全体の4分の3くらいのところに書かれているので、この日記にある3月1日の出来事が「猫」の記述の下敷きになったと考えてもいいのではないだろうか。

この日記を書いた詩人の名は伊良子清白。筆者は、たまたまその岩波文庫を持っていた。その文庫の解説文として昭和13年に書かれた伊良子清白の略歴を引用してみる。

伊良子清白 本名 伊良子暉造(いらこてるぞう)、明治10(1878)年10月4日鳥取県八上郡曳田村に生まれる。幼時、父母に伴われて三重県に移住。その地の小学校をへて津中学校を卒業した。中学在学中、同志数名とともに和美会雑誌経文学など発行。詩は16-7歳から習作を試みた。次いで京都府立医学校(今の府立医科大学)に入学、明治32(1899)年卒業後、東京に出て伝染病研究所・東京外国語大学ドイツ語学科に学んだ。医学校在学中から「文庫」「青年文」に寄稿し上京後は「明星」初期の編集に参与、またその頃大阪で発行した「よしあし草」(のちの「関西文学」)にも執筆した。

常に「文庫」の同人として河合酔茗、横瀬夜雨、その他多くの同志と詩作に努力した。明治39(1906年5月詩集「孔雀船」を出版、所収詩篇わずかに18篇であった。出版と同時に東京を去り、島根・大分を経て台湾にあること10年、大正7年京都に帰住、その間みな官営病院の医師として多忙に生活した。大正11年現在志摩鳥羽に移り初めて開業しようやく時間に恵まれた。

これだけでは、青年期に詩を作っていて詩集まで出した医師ということしかわからない。保険との関わりは一切書かれていない。漱石に保険を売ろうとした詩人医師・伊良子清白とはいったいどういう人物だったのだろう。なぜ保険に関わりがあったのか。この1906年に何があって彼は詩作をやめたのだろうか。

3.伊良子清白探訪

そこでさらに調査をすすめると、現代詩手帖という定期刊行物の2004年8号 が伊良子清白特集号であることがわかった。そこからさらに詳しい略年譜を得た。

伊良子清白略年譜

1877年(明治10)

現在の鳥取県八頭郡河原町に生まれる。本名・伊良子暉造(いらこ てるぞう)。父・開業医の政治、母・ツネ。

1883年(明治16)6歳

父政治が浪費壁のため医院を閉ざす。

1889年(明治32年)22歳

京都医学校(現在の京都府立医大)卒業。医術開業免状を受ける。

1900年(明治33年)23歳

上京、日本赤十字社に勤務。横浜海港検疫所に勤務。

1902年(明治35年)25歳

内国生命保険の診査医となる。

1903年(明治36年)26歳

父の経済的破綻により預金の半ばを送金、嘱託医として三重県一帯をまわる。

1904年(明治37年)27歳

日露戦争勃発。診査医の旅を重ねつつ、詩作。

1905年(明治38年)28歳

春、四国の各地を保険勧誘と診査でまわる。結婚、6月から大阪で新婚生活。

1906年(明治39年)29歳

詩壇決別を表明。3月、長原止水、夏目漱石、上田敏などの文人画人を歴訪して保険へ勧誘したが不成功。3月末「孔雀船」編集。

4月帝国生命を退社。島根県浜田の則天堂医院赴任。

5月「孔雀船」刊行

1908年(明治41年)31歳

大分県臼杵町に住む。大分県警察部検疫官。

1910年(明治43年)33歳

台湾に渡る。台中病院内科に勤務。台湾総督防疫医など。

1918年(大正7年)41歳

京都の病院勤務。

1921年(大正10年)44歳

三重県南牟婁郡市木村へ転居、区医及び小学校医として市木医館に住む。

1922年(大正11年)45歳

三重県志摩郡鳥羽小浜へ転居、村医として永く住む。日夏秋之助、西條八十による清白再評価

1946年(昭和21年)

1月急患の往診途上、脳溢血で倒れ逝去。享年68歳。

伊良子清白が生命保険に関わったのは25歳(1902年)から29歳(1906年)まで。その間、内国生命(内国生命病災保険株式会社)と帝国生命の診査医をしていたようだ。その最後の年に詩集「孔雀船」を出版し、唐突に保険会社を退職し詩壇からも遠ざかっている。

年譜から診査医としての4年間は父の借金を返しながら、保険の営業ノルマまで負いながら診査旅行に出、さらに詩作に励んで当時の清白の生活が浮き彫りになった。この年譜においても伊良子清白は1906年の3月に漱石を訪問して保険勧誘したとあり、まさにその直後1906年8月まで連載されていた「吾輩は猫である」に生命保険に勧誘された話が出てくるという事実をあらためて確認できる。

4.診査医と旅と詩作

交通機関が発達したこともあり保険会社の診査医が伊良子清白のように何日もかけて診査の旅をすることは、今はもうほとんどないだろう。国内のほとんどの場所が日帰りできてしまう。私自身の経験では診査のための宿泊出張は福岡勤務時代の対馬(2泊3日)、東京勤務時代の甲府・長野(1泊2日)くらいだが、短いなりに旅情を感じていたこと思い出すことができる。スマホなどない時代、旅を枕に長めの日記を書いたりしたものだ。対馬の北の端「韓国が見える丘」から見た釜山の灯や、小淵沢から長野まで千曲川に沿って走る小海線の旅など、この仕事をしていなければ経験できない旅があった。

伊良子清白の「孔雀船」の詩も、そのほとんどが診査旅行中に書かれたもののようだ。そう考えると「孔雀船」はまさに診査旅行によって産み出されたとも言える。それでは、なぜ伊良子清白は「孔雀船」を出版すると詩壇からも診査医からも断絶するような生き方を選んだのだろうか。

5.芸術家か生活者か

そのヒントは略年譜1906年に書かれた「3月、長原止水、夏目漱石、上田敏などの文人画人を歴訪して保険へ勧誘したが不成功」というあたりにあるようだ。詩人・作家平出 隆(ひらいで たかし)氏が伊良子清白の人生を小説として描いた「伊良子清白 月光抄」 からその出来事に関する記述を見つけたのでそれを引用すると

 だが、たとえばこんな疑問がある。『明治詩人伝』や『長流』によれば、長原止水を訪問した清白はあたりまえのようにして止水を保険に勧誘して、その激怒を買った。「それでも貴方は詩人か」一喝され、画室を締め出されて怱怱(そうそう)に門を出なければならなかった、という。

 日記に目を凝らしてみるが、その記述はない。むろん、記述の向うに隠されたのかもしれない。

 けれども清白には、どうも相手のその怒りを、どう考え、そしてそれから受けた衝動をなだめるすべも自分にはなかった。傷ついた、しかし何となく承服できぬ面持ちで友達に語り、そして友達の同感が、長原さんの側にあるらしいことがわかると、すうっと顔から生色が引いて、そしてそれがもう友達からの孤立と別離を決める瀬戸へといそぐはずみになるようで・・

『明治詩人伝』の、胸を衝く一節である。『長流』ではいっそう小説的に書きなおされていて、生活を芸術よりも下に考えることのできない清白がそこにいる。人間は詩も書けば保険も勧める、そう考えている清白がそこにいる。――

6.医師か生活者か

長原止水が伊良子清白を一喝したように、芸術家が自分の芸術家生活を至高なものと考え、詩人たろうとしながら保険会社で働き保険の営業をする伊良子清白の「俗っぽさ」を軽蔑したというエピソードはいかにもありそうな話だ。

そして、このアナロジーで考えると、人命を救うという至高な目的のためにあるべき医師が、生命保険会社のために働く社医にたいして同じように批判的な考え方をもつことも理解できないわけでもない。医局の先輩から「せっかく医者になったのに何やってるんだ」と言われるようなものだ。

面と向かってそうした批判されることはなかったけれども、社医になりたてのころは私自身の中にもそうした屈託はあった。入社したての頃は、地元の福岡勤務であったため、診査対象の被保険者が臨床医時代の先輩や同級生や同僚の医師であることはしばしばだった。昨日まで一緒に診療や手術をしていた医師仲間のところに保険会社の職員として参上することに抵抗を覚えたこともあった。

ところが、むしろそういう仕事には率先して手を挙げて行くように気持ちを切り替えて、あえてそうした自分の生きざまを肯定的にとらえることで、次第に「自分はこの道を行く」という決心が固まったような気もする。多少なりとも伊良子清白に似ているかもしれない。

7.伊良子清白をたずねて

こうして、詩人として親しんでいた伊良子清白が短期間ではあるが私と同じ立場であり診査旅行が名作「孔雀船」を産んだことを知った。伊良子清白への愛着が一層増した筆者は折々に伊良子清白事跡・旧跡を訪問し資料を集めたのでここにしるしておきたい。(以下略)

8.おわりに

伊良子清白は29歳で保険会社を去り詩壇を去り流転のすえに三重県鳥羽で僻地の医師としての68歳の人生を終えた。伊良子清白が書き残した保険会社時代の日記には、診査の旅・社内での軋轢・仕事と芸術活動(詩作)の両立など現代のわれわれ医務職の活動に通じるものが赤裸々につづられている。

明治期の保険会社の医務職員の日記としては、これまで中濵東一郎の「中濵東一郎日記」 が唯一のものと考えられていたが、新たに「伊良子清白日記」 が発見された意義は大きい。業界の大立者であった中濵東一郎とはまた違った診査の現場の社医の日記として貴重なものと言えるだろう。