El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

「平穏死」のすすめ

母の死と「隠れ胃ろう」

本書の趣旨は、口から食べられなくなったらそれは「平穏死」を迎えるための準備段階にはいったということ。つまり、「食べられないから死ぬ」のではなく「おだやかな死を迎えるために食べなくなる」ということ。

世間的にも、認知症高齢者が「胃ろう」や「経鼻経管栄養」によって命を保ち続けることに否定的な考えは広まっている。「胃ろう」が手術を伴うこともあり「胃ろうはやらなくて結構です」という家族は多い。その点においては本書の主張は世間に受け入れられていると思う。

ところが「口から食べられない」にもいろいろな形がある。認知症がすすんで意識はないが呼吸と心拍はあるという状態では当然ながら自発的には「口から食べられない」のだが、それでも「胃ろう」や「経鼻経管栄養」なしで数か月、長ければ1年以上も生き続けるという事態が生じている。それは、さまざまな「経口補水液」「経口栄養液」が開発され、それをストローをつかって口腔内に投入し嚥下反射でのみ込ませるというワザが広まっているから(ではないか・・と推測)。まるで人間の水栽培だ。

まさに「隠れ胃ろう」であり新しい「植物状態」。その状態に舵を切るという明確な認識がないままに移行してしまうというところがおそろしい。この状態では咳嗽反射が低下してきて肺炎を起こして呼吸不全で死ぬまで植物状態が続くことになる。そんな状態がはたして「生きている」と言えるのかと思う。なかなか死ねないのだ。

じつは、わが母(90歳)がそういう状態で1年以上も生き続けている(いた)。意図してそうしたわけではなく、コロナ渦で面会できない間にそういう状態になっていた。いったんそれが定常状態になってしまうと、家族が「それは非人間的だから差し控えてください」と言い出すことには相当なエネルギーが必要であり、心の痛みをともなう。

そこをなんとか乗り越えて、決断をくだして13日目が今日。看取りまでそう長くはないだろう。しかし、こうして看取りを待つ間も煩悶はある(追記10月27日死去)。「隠れ胃ろう」の罪は大きい。