El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ごまかさないクラシック音楽

やはり、そうだったのか「クラシック音楽」

岡田氏は音楽学者(1960年生)、片山氏は政治思想史研究者(1963年生)。二人がクラシック音楽の歴史を世界史との関連の中で語りつくします。

「クラシック」と言ったところでせいぜい18-19世紀のヨーロッパの音楽にすぎない。それがちょうど西欧の世界制覇と重なったために、世界中の音楽が「クラシック」の表記法になってしまって・・・・云々から始まる対談。

「西洋音楽」というものが、いわゆる西側自由主義陣営の文化的象徴だったことは明らかであって、今こそ非西欧、いわゆる「ユーラシア主義」的な視点から、20世紀音楽史をどう見るかが重要になってくる。(P246)

「クラシック音楽」は「西欧の音楽」、つまり西側キリスト教圏の音楽なのだと改めてわかります。もちろんそこにはプロテスタントも含まれる。要するに旧西ローマ帝国圏の音楽。旧東ローマ帝国圏、つまりロシア正教圏はその「外」にある。逆に言えば、ロシアや東洋の音楽には「アンチ西」の怨念が伝統として流れているのかもしれない。

 近代市民社会の音楽としてのクラシックは、やはりウィーン古典派から始まる。市民社会と啓蒙主義の始まりとほお同時。それより前のバッハの時代は、まだまだ王権とか宗教の方が前面に出ているのに対して、作曲家の個人意識がハイドンやモーツァルトにははっきりある。これがベートーヴェンに至って盤石になり、やがて「僕の悲しみと喜び」といった内面感情が至高のものになる。ロマン派へ行く。ロマン派は「個人至上主義」という西欧的価値観の音楽です。(P254)

 19世紀ロマン派は制限選挙の時代のブルジョワ・エリートの音楽だった。しかし彼らは第一次世界大戦前後から没落し始める。(P258)

業界的には「このジャンル、もう終わってない?」と認めるわけにはいかないから、なんとか蘇生措置をしなくてはいけない。あらゆる戦略を動員して、そのジャンルが生きているように演出しないといけない。(P321)

といわけで、18世紀後半から20世紀前半の音楽であったクラシック。それはアメリカの音楽の時代とともに音楽としての主役やジャズやポップスに譲ってしまう。言ってみれば、日本における歌舞伎のような過去に隆盛を極めていまでは細々と続いているコンテンツということか。ところが小さいころから音楽の授業でそんなこと教えてくれないので、クラシック=音楽のメインストリームと思い込んできたわけ。うすうす、感じては来ていたけどクラシック愛好家である二人の対談でまさにクラシックを相対化でき、幾分かはすっきりした。古典落語を聴くようにクラシックも聴けばよい。