El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

客観性の落とし穴

客観性重視 と 個別性重視 それは対立軸ではないのでは?

学力判定に偏差値が取り入れられたのが1957年(私の生まれた年)、evidence-based-medicineという考え方が出てきたのが1994年、なのでまあ数値化・客観化の流れの中で人生の大半を過ごしてきたことになる。

この本は、客観化→数値化→序列化・効率化といういわばevidence-baseの方法論が自然科学から社会科学にまで拡大してきて、個々の少数者・弱者が切り捨てられる状況を憂い、「現場目線の個別性の側から考えよう」という立場の本・・・だと思う。

しかし、現代社会が最大多数の最大幸福を目指し、そのゴールを客観的に設定して(数値化・統計化 etc)そこに向けて社会をドライブしていくのは理にかなっていると思う。そうなると当然ながら少数派・例外的な弱者・病者は置き去りになる。その置き去りをどこまで・どうやって救済していくか。そこにもまた客観的な条件・ゴールを設定して救済していく。そんなことの繰り返しが現代の民主主義のルーチンなのではないか。

政策的な客観主義と、そこからこぼれ落ちる弱者をどうケアしていくかという議論は対立軸ではなく、補完的なテーマととらえるべきではないか。制度設計とその制度で生じる弱者の救済、これは対立軸ではなく車の両輪。個別的な弱者救済に客観論・功利主義を持ち込むこと自体がナンセンスなのだから。

著者の目線は理解できるが、現場に近いところに身を置きすぎたが故のセンチメンタリズムという感想が否めない。まあ、思考訓練の入口にはなる。一方、「客観化が平均化につながり普遍性が失われる」という考えは面白い。普遍性と平均性(=一般性)は異なる。多くの場合、平均的なものは普遍的理念からみればあまりにも凡庸で退屈。平均性の生を生きざるをえないとしても生きざまには普遍性を求めたい。