El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ブックガイド(114)ー 精神医学の闇の連鎖ー

https://uuw.tokyo/book-guide/

ー 精神医学の闇の連鎖ー

気楽に読める一般向けの本で、アンダーライティングに役立つ最新知識をゲットしよう。そんなコンセプトのブックガイドです。第114回目のテーマは「現代精神医学のルーツ」。現代精神医学はDSMという診断基準に基づいたものであることはこのブックガイド第41回「シュリンクス 誰も語らなかった精神医学の真実」で紹介しました。ところが今回の本「なりすまし」はそのDSMそのものもある種のフェイクの産物なのでは?というまさにちゃぶ台返しの一冊です。

この本、まず著者のスザンナ・キャハランのことを知らないと面白さがわかりません。2009年に24歳の才媛の記者だった彼女が希少難病「抗NMDA受容体脳炎」という自己免疫による脳炎になります。しかし症状は統合失調症そっくりで精神科医に統合失調症と決めつけられ危うく命を落としかねない状態に。そこから神経科医(精神科ではなく神経内科)の奮闘で正しい診断にたどりつき一命をとりとめます。その体験を彼女自身が本にまとめたのが「脳に棲む悪魔」ーこの本はブックガイド第13回で取り上げました。
その後、自分を生命の危機に落としかねなかった精神医療ーに不信感をいだいた彼女はジャーナリストとして精神医療の世界の過去・現在・未来を文献やインタビューを通して調査していくことになりました。今回の「なりすまし」はその報告書でもあるんです。
まず描かれるのは、1960年代まで続いていた中世の風景とも見紛うような収容所的な精神病院(日本では今でも同じような状態の精神病院はありますね)。邪魔になった妻を社会的に葬るために精神科医に金を出して精神病と診断させ入院させた、などという黒歴史も描かれます。
そこに第二次世界大戦前後(ユダヤ系のフロイト派精神分析医が大量に米国に来たことに発する)起こった精神分析ブームが加わります。怪しげな精神病院とさらにあいまいな精神分析にアメリカの精神医療に対する国民の不信感はその頃(1970年代)かなり高まっていました。
その不信感を爆発させたのが本書の中心に据えられる「ローゼンハン論文」。ローゼンハンという心理学者が自分自身や部下・学生に統合失調症のふりをさせ(なりすまし)、なんなく精神病院に潜入・入院したうえで、その間に受けた役に立ちそうもない治療内容、診察時間などを細かいデータとして提示し、いかに精神医療がいいかげんなものなのかを暴露する論文を書きました。
その論文が、なんと1973年の「サイエンス」に掲載されました。そこから盛り上がった「反精神医療運動」によって精神病院の閉鎖や、断基準の革命的な改訂(1980年刊行のスピッツアーによるDSM-III)が始まったんです。
ところが、ところが、スザンナがその論文の中身をジャーナリストとして執拗に追ってみると潜入したローゼンハンの記録やニセ患者の記録はローゼンハンが都合のいいように書き換えていた疑いが浮上。さらに大半のニセ患者はそもそも存在もしない架空の人物だった可能性も。多くの関係者はすでに死去しており真相は闇の中ではあるのですが・・。スピッツアーもローゼンハンの不正を知りながら自分の仕事に役立つとみて見逃していたような様子もあります。「いいかげんな精神医療」をただすのに「いいかげんな論文」が使われてそこからDSM-IIIが生まれたという皮肉。
そしてさらに皮肉なのは、これらの改革の結果として精神病院が閉鎖されても、その際のお題目だった「地域の中での精神疾患患者の受け入れと治療」なんて実現できるはずもなく放り出された患者はホームレスになるか刑務所に入ることに。精神病院に費やされていたコストが刑務所のコストになっていくというアメリカの現実。
そしてDSM-IIIもその根本理念からずれまくり新型うつ病やADHDのようなグレーゾーンの患者を作り出し製薬会社の思うつぼに。「いいかげんな精神医療」をただすのに「いいかげんな論文」が使われたが、その結果もまたかなり「いいかげんな精神医療を増幅させた」・・・それもかなり悪い方向に。
そんな時代の果てに、スザンナ・キャハランの脳炎の誤診があり、われわれを取り巻く現在の精神医療もある、というやや驚愕の事実に辿り着きます。事実は小説より・・・ですね。(査定職人 ホンタナ Dr. Fontana 2023年7月)