境界を行きつ戻りつする感覚 そして「プロフェッショナル」とは!?
このところ集中して読んでいるシーラッハの作品の中で初めての長編を読む。
正義と悪、生と死、真実と創作・・・そうした一見対立したものの境界は実はぼんやりしたものでしかない。読後に読者である自分が置かれるのもそうした境界の上に生きているという不思議な浮遊感。
境界がぼんやりしたものであることをわからずに(わからないふりをして?)自分の正義論をふりかざす刑事の役どころがこの世の多くの人々の姿。読後に「理解できない」と思う場合は、そんな俗人性を反省すべきか。私自身も俗人でもあり賢明な読者でもあるという境界の上で読み終えた。異能の芸術家エッシェンブルクと刑事事件専門弁護士ビーグラー。どちらも作者シーラッハの分身であろう。
「プロ」とは「プロらしい振る舞いができること」。プロらしい振る舞いとはものごとに白黒がつけられることではない。
すべてギリギリのところは白黒なんてつけられないことを理解しつつ、そんな理解ができない一般人(=プロでない人々)が限られた知性で納得できる答え(=プロらしい振る舞い)を提示してあげられることーそれが「プロ」。
シーラッハがたびたび取り上げる良寛の辞世(?)の句が象徴するもの・・・
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」