El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

すごいトシヨリBOOK

やや独善的? エンドポイント理論は応用できる!

正しいのかはわからないが次のような立場

  • 群れるのをやめて一人ひとりが過去を背負い、一人ひとりが自分の老いを迎えるのが本来であって、群れて、集まって、はしゃいで、というのは老いの尊厳に対する侮蔑ではないか。P37
  • 予想外のところで自分を見た時、見知らぬ他人がいる驚き。そういう見知らぬ他人に近くなった自分と、いかに折り合いをつけていくのかというのが、老いていく日々の特徴です。P41
  • ヨーロッパの人は、教養にもよりますが、「横取り症(人の話題を横から入って取ってしまうこと)」については非常に厳格です。「人の話に口を挟まない」というルールが、社会全体に徹底されている。P65
  • 現在の老いの問題は、人間の長生きしたいという夢が実現したわけではなく、医学の進歩や、衛生状態が格段に良くなったこと、その他の理由で、否応なく長寿に恵まれてしまったことにある。P94

などなど、わからなくはないが独りよがりも目立つ。この本を出版した二年後に78歳で亡くなっているが、この本自体も70代後半の老人の独りよがりがよく出ているように思う。私にとっては、池内紀は結局良さがわからなかった人。

今の60代は、もっと若くて、もっと前向きな70代を過ごすべきだ。そういう時代を生きてきたはず。池内氏が「はじめに」で言っているように仮のエンドポイントを77歳と仮置きし、古希(70歳)から喜寿(77歳)を自分なりに楽しむ、そのために私も現時点(65歳)から古希(70歳)までをまだまだ利他的にかつ健やかに過ごしたい。

「七十七には世の中にいない」という「予定」を建てました、普通は生きていることを前提にして予定をたてるのでしょうが、僕はむしろ、「もういない」としたほうが、決断しやすいというのが自分の判断です。

七十七の時にはもういないから、その前にコレをしておこう、億劫だけどアレもしよう、ちょっと贅沢してみよう・・・こんなふうに、「もういない」としたほうが、決断しやすいというのが自分の判断です。

まあ、池内氏自身は想定エンドポイント直後に亡くなったのではあるが・・・