El librero la Fontana

El librero la Fontana・ホンタナ(いずみ)氏の本棚「人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ 」(アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

法医学者の使命

医療事故裁判について、法医学者が語りつくす!

著者は法医学の大学教授を退官して大阪の監察医務監になった法医学者。1953年生。この手のよくある法医学OBモノ?という思いで読み始め、前半はまあそんな感じだったのだが・・・。

後半の「医療事故と刑事裁判」「どうすれば、冤罪を防止できるか」で取り上げられる医療事故裁判のケースレポートが核心をつく文章で、「他人事ではない」と読みふけることに。医療事故と法医学の微妙な関係を含めて結構濃厚な世界を知ることができた。医療に携わるものであれば、第3章と第4章だけでも読んでおきたい。

医療事故をとりまく登場人物、警察・検察・裁判官、さらに法医学者・病理学者・関わった臨床医・関わらないのに安易に証人になる医師たち・・・そこで繰り広げられる、公平な目からみた真相解明とは程遠い法廷闘争。これは、ひどいね、冤罪起こるよね・・と思わざるを得ない。

本書のケースレポートの中から、いくつか紹介すると

①1955年の東大ルンバール事件:医療で障害を残した被害者と家族に保障するために、裁判官が医師のミスであるとする科学的根拠なき因果関係(ルンバールと脳出血)の認定というへんな論理がまかり通るようになってしまった。

著者曰く「東大ルンバール事件判決が示す法律家の法的判断至上主義と科学軽視の意識が、多くの裁判で私が感じてきた裁判官や検察官の科学的根拠軽視の根底にあると感じる(P125)」。被害者がいるなら加害者がいるはずという考え方を医療の不確実性にあてはめることの愚。

②2004年の福島県立大野病院事件。この事件は医師を逮捕という衝撃もあって注目されたが、ここでも「検察・警察が医師を逮捕・起訴した背景には、医療事故発生後、病院が保険を使って遺族に補償をするには、医師の過失と患者死亡との間の、”因果関係”を認めなければならないという事情に基づいて作製された事故調査報告書があった(P137)」・・・これも医師側は怖い話。

ただし、こちらは弁護団のがんばりで「安福弁護士を中心とする弁護団のメンバーは、病理医Cの説明を丁寧に聴き、多くの産科医に手術の場面を再現してもらいながら疑問をぶつけて勉強し、議論を重ねたという。その理解に基づいて、決定的な科学的根拠となる事実を複数見つけ、法廷で、被告人、弁護側・検察側証人、検察官に対して、『真実の曝露」と『無知の曝露」を促す弁論を展開したことが功を奏した。検察側の病理医Bは、癒着胎盤の診断経験が乏しいうえ、担当医の見解や子宮の肉眼所見を参照しなかった。(P140)」なんともお粗末。

病理解剖が多くの場合臨床医の立ち合いのもと行われるのにたいし、司法解剖では、医療専門家の意見を聞くシステムがなく、臨床医との連絡が法的制限を受けているというのも驚き。

③1999年の杏林大学附属病院割りばし事件。検察側はすべての証拠を開示する義務はなく、自分たちに不利な陳述は証拠として採用しない。その証拠は検察側しか知らなければ握りつぶされることになる。

「(無罪にはなったものの)検察官が、解剖所見・診療経過に関する十分な情報を提供した上で解剖執刀医である村井教授や第三者専門家に予断なき意見を聴取する、といったことをせずに、村井鑑定と異なる自らの「見立て」に従って事件を処理しようとしたことが、誤った起訴から刑事裁判の混乱を招いた根本原因であることがわかる。」

結論として

「司法解剖の情報や鑑定書、刑事捜査の過程の情報 が関係者に開示されず、第三者専門家の評価・チェックを受けないまま、専川的な知識の乏しい検察官が自らの見立てに沿って捜査を進め、起訴できることが、本件に限らず冤罪事件全般の背景にある。この刑事司法システムを変えない限り、冤罪はなくならない。(P158)」と結局はここに至るわけか。

どうでしょう。法医学者の目から見た、これらのケースの裁判経過を読むことができるのはめったにないので驚きの連続。死因究明制度の不備なんて、あまり関係ないと思っていましたが、医療上の刑事裁判が他人事ではないと実感してしまいました。