El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

終わりの感覚

書かれなかったことを読めなければ読めない本。

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

 

2018年1月この本を原作とした映画「ベロニカとの記憶」が公開されるとのことで読んでみた。

この小説のポイントは時相がふたつあること。35-40年前の主人公20代の頃の出来事、そして現在の出来事。ところが過去の出来事があたかも事実のように書かれていながら、じつは現在からの回想でしかないところが大きな仕掛けになっている。そして、現在のある出来事(過去に書いた手紙)によって、回想そのものの信頼性が大きく損なわれる。つまり、前半の若いときの話は主人公の都合のいい回想に過ぎなくなってしまう。都合の悪いことは思い出されていない・・・。

冒頭から読むとこの仕掛にまんまとのせられてしまう。だから最後まで読んでも???なことがいくつか残る。なぜベロニカと別れたあと母親から手紙がくるのか。エイドリアンはなぜベロニカとつきあっていながら母親とできてしまい妊娠までさせてしまったのか。死ぬ前はなぜ幸せだったのか。なぜ自殺しなければならないかったのか。なぜ母親は遺産とエイドリアンの日記を主人公に送るのか。血の報酬の意味は。

これらがもやっとしてクリアにならないのは前半の回想部分に意図せざるうそや省略があるからだ。

でも、それがどんなうそか、何が省略されているのか、読み手は想像するしかない。

主人公はベロニカの母親とできていた(目玉焼きのシーン)けどそれが書かれていない、のかもしれない。もっと突飛なことを考えると、エイドリアンの実母がベロニカの母で、障害をもったエイドリアン2世は、エイドリアンとベロニカ、兄妹の子供なのかもしれない。そんな多様な読みができる構造ゆえに読後の浮遊感があるような気がする。

「終わりの感覚」は2度めは書かれていないことを考えながら読まなければその本質がわからない、いや、そう読んでも浮遊感が残る、不思議な構造になっている。レビューの評価が割れるのは、どこまでも残るはっきりしない感を受け入れられるかどうか、ということか。

ベロニカとの記憶(字幕版)

ベロニカとの記憶(字幕版)

  • 発売日: 2018/09/05
  • メディア: Prime Video
 

 <2019年11月10日追記>この本を原作とした映画「ベロニカとの記憶」がAmazon Prime Videoに入ったので見た。主人公の孤老の生活が結構いい感じで描写されていた。歳とったベロニカをシャーロット・ランプリングが演じていたが若いころと容貌が違いすぎてやや違和感が。重大な役回りのベロニカの母こそがランプリングにふさわしいのでは?記憶がウソをつくというコンセプトはうまく表現されていて映画も☆☆☆☆

(ランプリングで期待してみた「さざなみ」よりもずっといい)

<2020年4月12日追記>新型コロナで巣ごもり状態になり映画「ベロニカとの記憶」をAmazon Prime Videoを見た。ところが5カ月前に見たはずの映画なのに初見のような感じがした。で、感想を原作本のところに書こうと思って自分の書いたレビューをみると5カ月前に追記していた・・・おそるべきことだ。歳をとるとはこういうことか・・とまさに「終わりの感覚」である。

そして、再度原作の「終わりの感覚」を読んでみた。何度も楽しめる。また映画をみたくなった。これは不思議な作品だ。