El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

新・私の本棚 (12)記憶と忘却の関係性とは…

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記憶と忘却の関係性とは…医師が学ぶ「記憶研究」の現在地

65歳すぎの元外科医ホンタナが、一般向け医学書籍の中からテーマごとに3冊をセレクト、同世代の医師に紹介するブックレビューのサード・シーズン「新私の本棚・65歳超えて一般書で最新医学」。第12回・シーズン最終回のテーマは「記憶」です。

記憶のメカニズムが少しずつ明らかになってきたのはこの30年くらいなので、中高年医師にとっては勉強しがいのある分野です。記憶と忘却、そしてそれに大きくかかわる睡眠。その基礎知識は診療に役立つだけでなく、自分自身の脳の健康にもとても大切です。

記憶研究を概観するのにベストの1冊
知識ゼロから読める、記憶研究の今

1冊目は『思い出せない脳』。「記憶」の科学的メカニズムについて、現在わかっている範囲をおおよそ理解できる内容になっており「記憶研究」の現在地を知るにはうってつけの一冊です。

構成も工夫されており、序章で「年をとると思い出せなくなるのはなぜ」という掴みからはじまって、思い出せないときに脳の中で何が起こっているのかを、6つのステップごとに章分けして教えてくれます。

それぞれの章は星新一のショートショート風の「ストーリー」で始まり、「本文」があって最後にまとめの「コラム」が添えられ、コンパクトにその章のテーマがわかる、そんな仕掛けになっています。列挙すると…

第1章 記憶を作れないと、どうなるか(記憶の作られ方)
ストーリー「記憶を作れない男」。神経細胞と記憶の基本的メカニズム。お酒を飲んで酔っ払って、いつの間にか家には帰ってきているがその間の記憶がない、そんな経験のメカニズム。どんな経験でもすべてが記憶されるのではなく、選別され消えていく記憶もあれば、保存される記憶もある。コラム「ワーキングメモリとは何か」。

第2章 情動が記憶を選別する(情動と記憶の関係)
ストーリー「宇宙人のミッション」。どの情報を重要視し記憶に残すのか、その判断基準としての情動(=その記憶ができたときの気持ちの揺れ)。情動が強いほど強い記憶ができる。情動をコントロールする情報伝達物質と、それぞれを分泌する脳の核。コラム「情動をコントロールする方法」。

第3章 睡眠不足が記憶の整理を妨げる(睡眠と記憶の関係)
ストーリー「トロッコの行き先」。睡眠による記憶の整理、編集、定着。記憶を呼び出しての更新作業の間に夢を見る。呼び起こされるたびに強化され変更される記憶。シナプスのスパインの刈り取り。コラム「夢分析の脳科学的解釈」。

第4章 抑制が働いて思い出せない(抑制による記憶の調整)
ストーリー「ファンと警備員」。抑制による記憶の調整。思い出そうとすればするほど思い出せない。ある回路が活性化されると周辺が抑制される。洗脳、マインドコントロールの原理にもなる。コラム「記憶を食べる脳細胞(ミクログリア)」。

第5章 使わない記憶は変容し、劣化する(記憶の変化・劣化)
ストーリー「最高のプレゼンテーション」。記憶は思い出さなければ劣化し、思い出せばそのたびに変容する。その曖昧さこそが脳の戦略。コラム「人工的に記憶を操作する――光遺伝学」。

第6章 記憶という能力の本当の意味(まとめ)
ストーリー「目覚めた女」。視床・海馬・大脳辺縁系・大脳新皮質・前頭前野と、記憶に関わる脳の核部位をおさらいしながら記憶と脳の全体像を再確認。そして「脳のあいまいさの意義」「自由意志」「情動理論」と発展的な話題へのイントロダクション。さらには、脳のポテンシャルを高める方法として「十分な睡眠」「マルチタスクをやめる」「何かに注意を向ける」など具体的な方法論まで。

こんな具合に順を追って解説してくれます。知識がほぼゼロから読み始めても、最後まで読めば記憶についてかなり詳しくなっていることに驚きます。それにしても、記憶-睡眠-夢、だれもが日々接しているものですが、その深奥が最近になって続々と解き明かされているという事実に驚かされます。

忘れてしまうこともまた重要
記憶のプロセスと、忘れることの重要性

2冊目のタイトルは『忘れる脳力』です。著者の岩立先生は千葉大の脳外科の教授で、脳外科臨床だけでなく脳の基礎研究における実績も十分です。特に「忘却のメカニズム」について最新の知見を、新書一冊でやさしく解き明かしてくれます。記憶と忘却の化学的メカニズムが、1冊目よりさらに詳しく書かれています。

短期記憶は海馬で作られ、その中から重要なもの(何度も想起され、情動をともなうもの)は大脳皮質に保存されます。記憶が作られ保存されるときの脳の変化は、シナプス(接合部)が新しくできるというわけではなく、シナプスの周辺構造を作るタンパク質の変化によって、特定のシナプス(群)の反応性が高まることによります。

 海馬には大量の情報が流れてきて短期記憶されるわけですが、その中で本当に重要な情報は時間をかけてゆっくりと大脳皮質に移されます。一方で、大脳皮質に移されなかった大半は、そのまま忘れられていきます。

記憶は化学物質信号(具体的には、作られたタンパク質=アミノ酸の鎖の立体構造)により成り立っているので、忘却は、(1)時間がたてばこの構造が劣化して記憶が薄れる、(2)記憶のためのタンパク質を積極的に破壊するタンパク質(Rac1)の存在、などのメカニズムで起こります。

そして最終的にはタンパク質の構造変化で古いニューロンが退縮し消えていき、そのスペースに新生ニューロンが発生し、次の記憶の担い手となります。つまり脳は海馬において、さまざまなレベルで積極的に「忘れる能力」を持っているのです。

また、海馬から大脳皮質へと記憶を移動させる回路は幼少期に形成されるので、小児期~10歳くらいまでの回路形成が、その後の人格形成に大きな意味を持っています。その時期に育児を他人任せにせざるを得ない現在の労働環境は、恐ろしい結果を生むかもしれないですね。

何に対して怒りを覚え、どんなことに喜びを感じるかといったことは、人生の在り方を大きく変える要素となります。だからこそ、10歳頃までにどんな経験をさせ、どんな思いをさせるかという点が非常に重要となってくるのです。

 子どもがまだ小さいうちに、「人生はこんなに楽しいものだ」ということを刷り込んでしまおう。「自分の存在を皆が喜んでいるのだ」ということを脳の奥底にたたき込んでしまおう。その記憶は一生残り、人生最大の財産となるはずだ。(80ページ)

また、大きな喜び・悲しみといった情動(気持ちの動き:情動は海馬に隣接した偏桃体で発生する)とリンクした記憶は、繰り返しの想起などを通して強化されて、大脳皮質に移行します。ですから「いやな記憶をどうやって消すか?」の答えは「考えなければいい」です。

しかし、どうしてもくよくよ考えてしまうもの。そんなときは逆説的ですが、そのいやな感じ・不安感に一度どっぷりとつかって十分に落ち込み、落ち込んで何もやる気が起きずにぼーっと過ごす、それで記憶に残しにくくなるようです。

 真実は「記憶の中」にあるのではなく、それを振り返っている「今の自分の気持ちの中」にあると言ってもいい。過去を悔やんでいる自分も、どんどん自動的に過去になっていく。嫌な記憶も含め、どんな記憶も必ず時間経過で薄れていくものである。…悪い記憶は忘れようとするのではなく、その出来事をまずはそのまま受け止めて、未来志向の解釈を加えたうえで「放っておく」ことが重要である。(97ページ)

忘れることは新しい記憶を獲得するために重要なプロセス。そして脳がきちんと忘れられるように、睡眠と運動…納得の結論です。

TEDトーク、小説でも話題
神経科学者が説く「記憶と忘却」

3冊目のタイトルはずばり『Remember 記憶の科学』。著者のリサ・ジェノヴァは、記憶に関わる神経科学のプロであるとともに、記憶やアルツハイマー病について、一般人にわかりやすく啓蒙する活動を続けている神経科学者。テレビやラジオなど数々のメディアに出演し、TED トーク「アルツハイマー病を予防するためにできること」は800 万回以上視聴されています。また若年性アルツハイマー病をテーマにした小説『アリスのままで』は世界的なベストセラーとなり、ジュリアン・ムーア主演で映画化されて2015年にアカデミー賞(主演女優賞)を受賞しています。

そんなリサがテーマを「記憶」にしぼり、記憶研究の現在地を示しながら、一般人が記憶についてどう向き合うべきかを書いたのが本書。サブタイトルが「しっかり覚えて上手に忘れるための18章」ということで、記憶と忘却にまつわる神経科学的な18のテーマを巧みに解説してくれます。

個人的に一番面白かったのは第7章。エピソード記憶が、思い出すたびにどんどん書き換えられていくというところ。これは60歳を過ぎると実感しますよ。

1冊目、2冊目と読み進んでくれば、この本の内容の多くはすでに知っているようなことばかりではありますが、なんといっても語り口が上手です。リサの記憶についてのTEDトーク(日本語字幕あり)も好評のようです。この動画を見て概要をつかんでから、この本を読むのもいいかもしれません。マルチに活躍する研究者の姿から学ぶ、そんな機会にもなりました。

まとめ

前々回のこのコラムで「眠りを制する者が人生を制す!?医師が紐解く『眠り』の世界」と題して睡眠のことを取り上げました。今回、記憶についての本を読んでみると、記憶と睡眠の間の密接な関係を痛感しました。

睡眠中の脳の中では記憶の整理整頓、さらには消去までが行われており、その最中に夢も見るわけです。肉体疲労の回復だけではない睡眠の役割。今回の3冊すべてにおいて、十分な睡眠をとることの重要性が強調されているのが印象的です。

さて、テーマごとに3冊の本を紹介してきた「私の本棚・還暦すぎたら一般書で最新医学」シリーズ。「私の本棚」「続私の本棚」「新私の本棚」と3シーズン、36本の連載を続けてきました。編集部の丁寧なサポートのおかげもあり、なんとかサード・シーズンを終えることができました。

足掛け6年、最初は60歳になったばかりだった私も66歳になり、睡眠力や記憶力が落ちてきていることを考えると、次のシーズンをいつ始められるのかわかりません。

しかし今回3冊目でリサがTED内で教えてくれる「精神的に活発な活動を続けることで認知予備力を鍛える」ためにも読書を怠らず、次のシーズン「私の本棚リターンズ」に向けて準備を続けていきたいと思います。