El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

終わらない週末

週末に終末がきたのだけど、なかなか終わらない

映画の「アルマゲドン」のような世界の終末を描いた物語がある。本書も世界の終末の姿を描いたものと言ってもいい。しかし、ここではアルマゲドンのように起承転結があるわけではない、日常生活を送っていて唐突にネットや電話やテレビが使えなくなる。原因不明。そこから果物が腐っていくように世界が崩れていくとでも言おうか。

ネットやテレビがないから、自分たち以外の場所で何が起こっているのかとんとわからない。世界が破滅に向かっていることを示唆する文章がほんの1,2行挿入されるときもあるが、主人公たちにはそれも知らされていない。宙ぶらりんの感じがすごくよく描かれている。

主人公たちとは、AirBnbで顔も知らない誰かの別荘に来ていたクレイとアマンダと息子アーチ―と娘ローズ。何も知らずにかりそめの別荘暮らしを楽しんでいる最中に、世間では急に破滅が始まり別荘のオーナーの裕福な黒人夫婦が危険を避けて別荘に戻ってくる。富裕の差や人種などからめた、主人公たちとオーナー夫妻のやりとりがおもしろい。

やがて大きな衝撃音(ノイズ)が世界に鳴り響き、息子アーチ―が病気になる。大人たちは右往左往するが、何が何やらわからないまま進行していく。ただ、幼い娘ローズだけは本能的に何かをわかっているように行動する。「それでどうなる?」と思って読み進んでいるうちに、そういう混沌とした状態のまま、話は終わってしまう。

終末の時がきたとしても、突然死するわけではなく、日常が少しずつ破綻していき、スマホやネットやカーナビの存在を前提として作られた部分から世界が崩れていく。その崩れの始まり部分を切り取ったような物語。どのように滅ぶかではなく、そういう滅びの中でも俗物たる我々がどういう行動をとるのか、がテーマ。

巻末の解説(これを読んでから本文を読んだほうが楽しめるかも)から引用ー

この小説を読んでいる間にも、世界のどこかで「終わり」はすでに始まっているかもしれない。でも、私たちはアマンダのように呑気にマスタードやクッキーを選びながら他人への優越感や劣等感を抱き、クレイのように助けを求める人を簡単に見捨て、最後まで卑小な日常生活を続けるのだろう。現実では、最後まで「答え」や「結末」を与えてはもらえない。

(図書館本)