「ボケる前に自死する」それはわかるが、どうもスマートではない
西部邁は実際、78歳で多摩川に入水自殺した。いずれは自死することを公言していたわけで、それに関する表現は本書中に充ちている。
ぎりぎりまで生きていると、死ぬ気力も体力もなくなって醜態をさらし、家族や病院(ということは世間)に迷惑をかけることになるだろう。(P28)
自分の死を意識しつつ死ぬこと、それが人間の本来の死に方であり、その最も簡便な形が「自殺」ということである。(P32)
老人の処世における一つのマナーとして、メメント・モリの心性を取り戻す必要があるのではないかと思われる。私のいう「自然死の間際における意志的な死」はそうしたマナー以外の何ものでもない。(P47)
「迷惑をかけるから」というよりは「醜態をさらしたくない」が本音のような気がする。共感する部分もあるが、もう少し、静かに一人でそしてスマートに死ぬべきだと思う。それには不言実行が最低限のマナーではないか・・奥様が先に死んだということもあるかもしれないが・・・
そう考えると、自分ならどうすれば、静かに一人でそしてスマートに死ねるか、と考える。いくつかプランは思いつくがそれを公言すればもはや静かでスマートな死とは言えまい。そしておそるべきは、計画していても認知症になって計画したことも忘れてしまえば・・・どうなるかわからない。
目下の理想は、「手術不能のすい臓がんになり、それが判明して半年以内くらいにモルヒネで除痛しながら死ぬ」というパターンだろうか。いずれにせよ、そう先のことでもない。西部邁のような頭脳明晰な論客が「死」をさも特殊なものとして考え抜いている姿は奇異でもある。職業柄、死と遠くない生活を送っていることもあり、私にとって「死」はそこまで特殊な事象ではない。