El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

西部邁 自死について

「ボケる前に自死する」それはわかるが、どうもスマートではない

西部邁 自死について

西部邁 自死について

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西部邁は実際、78歳で多摩川に入水自殺した。いずれは自死することを公言していたわけで、それに関する表現は本書中に充ちている。

ぎりぎりまで生きていると、死ぬ気力も体力もなくなって醜態をさらし、家族や病院(ということは世間)に迷惑をかけることになるだろう。(P28)

自分の死を意識しつつ死ぬこと、それが人間の本来の死に方であり、その最も簡便な形が「自殺」ということである。(P32)

老人の処世における一つのマナーとして、メメント・モリの心性を取り戻す必要があるのではないかと思われる。私のいう「自然死の間際における意志的な死」はそうしたマナー以外の何ものでもない。(P47)

「迷惑をかけるから」というよりは「醜態をさらしたくない」が本音のような気がする。共感する部分もあるが、もう少し、静かに一人でそしてスマートに死ぬべきだと思う。それには不言実行が最低限のマナーではないか・・奥様が先に死んだということもあるかもしれないが・・・

そう考えると、自分ならどうすれば、静かに一人でそしてスマートに死ねるか、と考える。いくつかプランは思いつくがそれを公言すればもはや静かでスマートな死とは言えまい。そしておそるべきは、計画していても認知症になって計画したことも忘れてしまえば・・・どうなるかわからない。

目下の理想は、「手術不能のすい臓がんになり、それが判明して半年以内くらいにモルヒネで除痛しながら死ぬ」というパターンだろうか。いずれにせよ、そう先のことでもない。西部邁のような頭脳明晰な論客が「死」をさも特殊なものとして考え抜いている姿は奇異でもある。職業柄、死と遠くない生活を送っていることもあり、私にとって「死」はそこまで特殊な事象ではない。