El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

新・私の本棚 (6)正しいがん治療とは?「がんゲノム医療」の未来を読み解く

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65歳すぎの元外科医ホンタナが、医学知識のアップデートに役立つ一般向け書籍をセレクトし、テーマごとに同世代の医師に紹介するブックレビューのサード・シーズン「新私の本棚・65歳超えて一般書で最新医学」の第6回。今回のテーマは「がん治療の未来」です。

この10年間で、がん治療における最大の出来事の一つは「がんゲノム医療」の登場でした。それは、次世代シークエンサーの普及と分子標的薬の開発によってもたらされました。政策としても2015年に、当時のオバマ大統領が一般教書演説で「Precision Medicine」と言い出し、それが日本では「個別化医療」と訳され「がんの原因となっている遺伝子異常をターゲットとしたがんゲノム医療」という流れになっていったのです。

その結果、日本でも2019年に「がん遺伝子パネル検査」制度となって、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミック前の医学界では、ある意味目玉商品みたいな扱いでした。それから3年たちましたが、「がん遺伝子パネル検査」ってなんだか忘れられようとしているのでは…これは、COVID-19のせいだけなのでしょうか?そしてここにきて「がんゲノム医療」に批判的な書籍を目にすることも増えました。今回はそんな中から3冊を選び、読み解いてみたいと思います。

変異を続けるがん遺伝子の本質は

1冊目は、がんの発生と遺伝子変異を中心に据えて最先端を語る『ヒトはなぜ「がん」になるのか』。著者のキャット・アーニーは、イギリスのがん研究基金「キャンサー・リサーチUK」の科学コミュニケーション部門で12年間働いたのち、サイエンス・ライターとして独立した女性。がんについての知識と人脈が豊富で、そのキャリアが本書を生みました。

難解ながん研究の最前線を一般人にわかりやすく教えてくれる本といえば、以前このレビューでも紹介した、シッダールタ・ムカジーの「がん−4000年の歴史」(2013年発刊・2016年文庫化)があります。しかしその後10年たち、この分野ではさまざまな進歩があったことを考えると、やや古いと言わざるを得ません。それに比べて本書には2019年までの出来事が織り込まれています。一般書でがん研究の最前線の情報が読め、その目配せの範囲を考えると、医学書よりも優れたものになっているのは驚きです。

本書によれば、すでに2012年には「がんは人体の中でがんとなった後もさまざまな遺伝子変異を起こしており、いわばがんとして進化している」ことがわかっていました。つまり、がんの遺伝子プロフィールは常に変化している動的なもので、一つの「がん」といっても遺伝子的に異なる細胞集団のパッチワークなのです。そうなると、がん組織を摘出し標本としてすりつぶして遺伝子パネル検査をしてみたところで、摘出した時期と部位(すりつぶせばみんな混じってしまいますが)によって結果がちがってくるのは当たり前です。同じがん組織の遺伝子パネル検査を二つの検査機関に出すと、変異の結果と推奨する抗がん剤がちがっていたという笑えないエピソードもあります。

肺がんの抗がん剤治療で、最初は効果があっても次第に効かなくなり再発してくることは理解していましたが、がんの遺伝子プロフィールがAからBへとドラスティックに変わるような理解をしていました。ところがそうではなくて、多数の遺伝子変異のパッチワークのうち特定の変異のがん細胞を叩けば、叩かれなかった変異をもつがん細胞がのし上がってくるという、まるで抗生物質と耐性菌みたいな関係だったということです。

そもそも美容整形(まぶたの切除)で得られた皮膚の遺伝子を調べると、そこにはがん遺伝子を含むさまざまな遺伝子変異がすでに蓄積しているそうです。ひとは生まれ落ちて以来、遺伝子の変異、修復、修復エラーなど、遺伝子レベルではさまざまに変化しながらもなんとか生き続けている――むしろ、その変化こそが人間を人間に進化させた原動力でもあったわけです。そんな中で、増殖し続けるという変異が具現化した場合をがんと呼んでいるだけのこと――と、この本を読んで、自分の中ではがんの本質がパラダイム・チェンジしました。

進化生物学者が考えるがん治療戦略とは

2冊目は『がんは裏切る細胞である』。進化生物学者が「がん」について考えると、現在の治療(特に「がん遺伝子パネル検査」がからむような、個別化高価格治療)がいかに的を射ていないかよくわかる――そういう意味で注目すべき本です。

大きく3つのパートから構成されています。

「がん」ができる理由:多細胞生物は細胞分裂を繰り返しながら成長し、継代する中で種としても進化していくという特徴はまさに、個体(の細胞分裂)レベルでも繁殖時の継代レベルでも遺伝子が変異することを利用したものであり、その特徴はそのまま「がん」ができてしまうこととトレード・オフの関係にあります。ゆえに、ある多細胞生物種が「がん」ができないように変異に対して非寛容であれば、種の進化に対しても非寛容となり、環境に適応した進化ができず滅亡する。つまり種として繁栄している多細胞生物は、それなりに遺伝子変異を許容する仕組みを内包しているといえるわけです。

「がん」が淘汰をいかにして逃れているか:この部分はかなり基礎研究的で理解するのに骨が折れますが、生態系(微小環境・微小循環など)・協力理論などを駆使して解説されています。アナロジーとして「DDTと害虫駆除」や「多剤耐性菌と抗生物質」の関係が挙げられており、そこから理解するとわかりやすいです。がん細胞も遺伝子的には均一ではなく多様であり、また未来に向かっても多様に進化していくので、現在のがん細胞を死滅させようと効果のある抗がん剤で治療すると、耐性を持ったがん細胞が生き残り進化する。それと同時に抗がん剤で破壊された環境は、そのあらたなるがん細胞の悪性の振る舞いを助長するんですね。叩けば叩くほど、悪くなっていくということです。

それらを踏まえての新しい治療戦略は「適応療法」:今ある「がん」をやっつけすぎない、ただし患者の命にかかわる程度にまでは増殖させない…そんな治療戦略が提示されています。もちろん、初期のがんで外科的に完全切除できるものは切除すればいいのですが、そうできなくなった場合にあえて抗がん剤で叩きすぎないようにして「がん」との共存をめざすべきということです。1冊目とは異なり治療にまで踏み込んでいる点が新しいです。

がんの現場にはびこる、薬物治療の問題点

3冊目のタイトルはずばり『悪いがん治療』。がん薬物治療の政策的な混迷を、さまざまな視点から描いており非常に有益でした。一般書として出版されていますが、内容が高度なので医師以外の読者が理解することはかなり難しそう…著者自身も腫瘍内科に興味をもつ医師を主な読者として書いているようです。そんな、がんの薬物治療に関わる医師にこそ読んでもらいたい一冊です。

抗体医薬ががんの治療に使われるようになり、がんの薬物療法は大きく変貌しました。確かに効果がある場合もあるが、そもそも手術療法で根治できないような進行がんに対する治療なので、大局的には「いくばくかの延命」はあるにしても「根治」を目指すことが難しいのは当然です。それなのになぜ大きく取り上げられているのでしょう。

一つには薬価がべらぼうに高く、薬剤メーカーが莫大な利益をあげられるから。一つには一定数の進行がん患者は常にいて治療の対象に事欠かず、わずかな延命に終わったとしても「そんな延命なんてムダ」とは言いにくいという心理。一つには大多数の人にとっては他人事で無関心なので、公的健康保険から莫大な薬代が払われていても直接的な損害意識が起きない、などの要素があげられます。

そういう事実を前提に本書では、

 第1部 がんの薬の効果はどれくらいで、値段はどれくらいか
 第2部 がんの医学をゆがめる社会的な力
 第3部 がん治療のエビデンスと臨床試験を解釈する方法
 第4部 解決

の4部にわけて、臨床医が正しいがんの薬物療法に至るまでの、困難ともいえる道筋を示してくれます。

特に気を付けたいものとして取り上げられているのが「代理エンドポイント」です。本来、治療の効果判定において使われるべき生死や生存期間のような客観性のあるエンドポイントではなく、CT上の腫瘍径のような測定者の恣意性が入りかねないエンドポイント、これを代理エンドポイントと呼びます。この代理エンドポイントで「効果あり」と判定されても、患者の延命や治癒には直接つながらない場合が多いのです。それなのに代理エンドポイントを利用した恣意的なエンドポイント判定と、それを利用する製薬研究のありさまが詳述されます。他にも治験のn(検体数)を増やして、無理やり統計的に有意にし、認可を取るというトリックなども驚きです。

「製薬メーカーのご都合主義的な証拠の解釈や統計操作、研究者や政策決定者への金銭供与」や「研究者の功名心や、政策決定者の天下り先温存指向」などのさまざまなバイアスを乗り越えて、がん治療医がいかにして意義のある研究論文を読み解き、正しいがん薬物療法をチョイスしていけばいいのか、という道筋が示されていきます。

日本でも腫瘍内科医を目指す医師が増え、腫瘍内科を標榜する病院が出てきていますが、がん遺伝子パネル検査がこけそうなのをみてもわかるように、私には医学全体の中でそこまで大きなニーズや費用対効果のある分野だと思えません。それなのに次々と開発される分子標的薬・抗体医薬…やはり、カネになるということが一番なのでしょうか…。

まとめと次回予告

がんに対する分子標的薬・抗体医薬が注目を集めたのはつい最近のことと思っていましたが、オプジーボの発売から約9年が過ぎ、いつの間にかこの分野が創薬の主戦場となっています。しかし、今回の3冊を読んで冷静に考えてみると、対象となる患者数や延命効果などを見ても、それほどプライオリティの高い分野だとは思えません。むしろ、3冊目の「悪いがん治療」のサブタイトルにある「誤った政策とエビデンスがどのようにがん患者を痛めつけるか」というフレーズが、現実として重くのしかかってくるのです。

さて次回は少し趣をかえて、患者目線で書かれた「闘病記」を読み解いてみたいと思います。取り上げるのは、『ボクもたまにはがんになる』『作家がガンになって試みたこと』『東大教授、若年性アルツハイマーになる』の3冊です。お楽しみに。