El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」

出会い→交わる→分岐する→出会い・・・

21世紀になってDNAの次世代シークエンサーが一般的になり微量でも、過去の試料でもDNAを分析できるようになって大きな変化がおこった。代表的な分野は、①医学・生物学(まあ、当たり前)②犯罪捜査(過去の冤罪や、誤って無罪となった事例の判明など、推理小説やボッシュでも頻出)、そしてもうひとつが「分子人類学」。

これまで人類の起源は化石や文化的な遺跡や言語などを足掛かりに研究されてきたわけで、ネアンデルタール人だとか北京原人、ジャワ原人などを中学あたりで勉強したのだが、この分野にDNA解析を加えることでこれまでの定説が大きく修正される事態になっている。

これまでの概念だと、たとえばネアンデルタール人がいるところに人類(ホモサピエンス)がやってきてネアンデルタール人を駆逐し、勢力を拡大しながら世界を制覇ということになるのだが、DNAを調べてみるとネアンデルタール人とホモサピエンスが交雑したことは明らか。ネアンデルタール人だけでなくデニソア人などとも交雑している。

というか・・・そもそもネアンデルタール人とかホモサピエンスを別のモノと考えること自体が間違いで、ある動物種がいて突然変異と環境適応によって少しずつ分岐していく(ネアンデルタール人とホモサピエンスのように)、そしてあたかも別の種と思われるくらい分岐したところで再度遭遇して交雑して新たな集団を形成し、それがまた分岐して・・・という具合。つまり、「出会い→交わる→分岐する→出会い」を繰り返しながら、たまたますごく増殖できた集団があたかも世界制覇したかのように見える、とそういうこと。

「種」という考え方そのものが固定観念的であり間違いというのが面白い。現在「種」と思っていてもそれは、進化と分化の連鎖の一つの局面だけを見ているに過ぎないーどうですか、なかなかコペルニクス転回でしょう!

そうすると、これは類人猿ー人間という話にとどまらず、拡大すればすべての遺伝をともなう生物にあてはまる話であり、逆に縮小すれば、人類の中での人種の差であったり日本人の中での縄文人と弥生人の差なども、偶然その部分を切り取ってみているにすぎない。実際問題として、現在「種」であったり「人種」であったりというカテゴリー分けで観察される遺伝子の差というのは、例えばあなたとあなたの隣にいる人の間の遺伝子の差よりもずっと小さい。