El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

新・私の本棚 (1)チャンスの前髪をつかめ!

チャンスの前髪をつかめ! mRNAワクチン開発の全貌

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還暦すぎの元外科医ホンタナが、医学知識のアップデートに役立つ一般向け書籍をセレクトし、テーマごとに同世代の医師に紹介するブックレビュー「私の本棚・還暦すぎたら一般書で最新医学」のシリーズ。

これまでファースト・シーズン12回セカンド・シーズン12回をお届けしました。今回からサード・シーズンを「新私の本棚・65歳超えて一般書で最新医学」と銘打ってお届けします。

新シリーズ最初のテーマは、「mRNAワクチン」。

「新型コロナウイルスワクチン」――人類史上これほど短期間に、多人数に接種されたワクチンがあったでしょうか。私にも先日4回目の接種券が届きました。その量を考えるとファイザー(開発はビオンテック)、モデルナの収益は想像もつかないほどです。

テレビやネットで報道されているように、これらのワクチンは人類史上初のmRNAワクチンです。多くのことが初めてづくしの中、ワクチンはウイルスの遺伝子配列解明から1年程度で完成し実用化され、これまで「数年はかかる」といわれていたワクチン開発の常識が覆されました。今回はまず、このmRNAワクチン開発の内幕を読み解いてみます。

mRNA実用化を目指し40年…
研究人生終盤に起きたパンデミック

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)ワクチンといえばファイザー、モデルナが代名詞のようになっていますが、これらはmRNAが史上初めてワクチンとして人体に使用されたものです。

もちろんパンデミックのために、やや性急な感じで認可されて世界中で使われているという面もありますが、驚くべきは「mRNAワクチン技術の実用化ができた」というタイミングでCOVID-19がやってきたということです。

これほどの歴史の偶然があるとは。その物語の発端として、最初に紹介する本は「世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ」。表紙カバーの女性、カタリン・カリコは、mRNAワクチン作成の基礎技術における大部分を発見した人物です。

カタリン・カリコは1955年、ハンガリー生まれの研究者で、ハンガリーのセゲド大学・研究所の頃(1980年前後)にRNA研究を始めました。1985年、研究者としてアメリカへ。その後も安定しない身分や収入にもかかわらず、mRNAを培養細胞に挿入して特定のタンパクを作るという研究をずっと続けてきました。

確かに、mRNAさえ準備すればどんなタンパクでも作れるというコンセプトは、今考えるとすばらしい。しかし当時(2000年前後)のバイオテクノロジーのレベルでは、実験室止まりの技術で実用化が難しく、あまり評価もされなかったのです。

一番の障害は、合成したmRNAを細胞に入れると(あるいは生体に投与すると)mRNAそのものの抗原性のために激しい炎症を引き起こし、細胞が死んでしまうことでした。

この難問へのブレークスルーを、カリコと共同研究者ドリュー・ワイズマンが発見したのです(その発見は以下のステップ)。

  1. mRNAではなくtRNAであれば炎症を引き起こさない
  2. mRNAとtRNAの違いはtRNAではウリジンが修飾を受けていること
  3. よって、mRNAのウリジンにtRNAと同じ修飾を施せば炎症を引き起こさな
  4. さらに修飾のかわりに、mRNAを作る際ウリジンをシュードウリジンにすれば高効率でタンパクを作れる

このテクニックが「Kariko-Weissman Technique(2012年特許)」として確立できたのです。

幸運なことに、ちょうど21世紀になって抗体医薬など生物学的創薬がポピュラーになり、mRNA創薬の周辺技術が整ってきつつありました。いわゆる医薬ベンチャーの時代が来ていたのです。

2013年、カリコはドイツのベンチャー企業ビオンテックの副社長として招かれます(その時の彼女の年齢58歳を考えれば特許使用許諾のためかもしれません)。そしてそのビオンテックがファイザーと協業して、COVID-19ワクチンを作ることになるのです。

カリコ氏は一躍ノーベル賞候補になりました。研究人生の最終盤にコロナ禍がおこり、これまでの研究が一気に花開いたのです。努力する者の上に神は微笑むというのは、まさにこのことです。

驚異の光速プロジェクトで実現
ファイザーワクチン開発の全貌

2冊目は「mRNAワクチンの衝撃」。今も世界中で繰り返し接種されているCOVID-19に対するmRNAワクチンの代表選手、ファイザー製ワクチンの開発の全プロセスがわかる一冊です。

『ファイザーのワクチン』とはいっても、ファイザーはいわば発売元であり、開発・製造しているのはドイツの会社ビオンテック社です。

ビオンテック社はトルコ系ドイツ人(ドイツが労働力不足からトルコ移民を多数受け入れていた時代に移民してきたトルコ人の二世)夫妻が2008年に作った会社。ウール・シャヒンとエズレム・テュレジの夫妻です。それぞれケルン大学とザールラント大学出身の医師。

ビオンテック社は創業以来、mRNAを使った「がん免疫療法」の研究と実用化を目標としていました。21世紀になって、それまで扱いにくい分子であったmRNAが、多くの研究者の努力によって次第に治療薬として使える可能性が見え始めていました。たとえば前述のカタリン・カリコの技術などがそれです(前述のように、カリコは2018年からビオンテックの副社長に就任しています)。

 ビオンテック社では、それらの技術を統合しさらに日々出現する新手法を取り入れ、治療対象である「がん」の抗原部分のDNA配列さえわかれば

 1. それに相応するmRNAを人工的に作り
 2. mRNAをがん患者に投与することで生体にmRNAから抗原タンパクを作らせ
 3. そのタンパクが攻撃目標として認識され免疫反応を引き起こし
 4. その活性化された免疫反応で「がん」そのものが攻撃される
 という、mRNA抗がん剤の開発の一連のプロセスを完成しつつあった…のです。

 そのドンピシャのタイミングで、COVID-19パンデミックが起こりました。武漢からヨーロッパに感染が広がり始め、中国の研究者がウイルスの遺伝子配列をインターネットに公開したのが2020年1月10日。ウール夫妻が、自分たちのmRNA技術でCOVID-19に対するmRNAワクチンを作ることを決意したのは1月21日。日本の第1号患者が診断されたのが1月15日ですから、ビオンテックの動きの速さには驚かされます。

 そこからウールの言う「Project Light Speed(光速プロジェクト)」がスタート。テクノロジー・人員・資金・治験・政治的駆け引きなどなどがさまざまに絡み合いながら進行し、ワクチンが完成し認可を受け、一般人への最初の接種が実施されたのは、プロジェクト開始からおよそ10カ月後の2020年12月8日。驚異の速度です。

 ワクチン開発は単に研究が好き、技術力がある、というだけではできません。テクノロジーへの目配せ(驚くべき論文渉猟量)・周辺技術への配慮・資金繰りにロジスティクス、そして何よりも人間に使用するための何層にも及ぶ治験。それらを着々とこなしていくビオンテック社のチーム力と、ウール夫妻の指導力、現実社会における実行力がすごいんです。

さまざまなことがジャスト・タイミングで一気に結合して、光速のワクチン開発。そしてそれが何十億人に接種されているという現実。もちろんビオンテック社とファイザーの得た利益は桁外れです。

モデルナワクチン開発の裏に
バイオ系ベンチャーキャピタルの存在

もう一方のモデルナのワクチンはどうやって超速でできたのかを知りたいと、3冊目に「モデルナはなぜ3日でワクチンをつくれたのか」を読んでみました。ところが、モデルナワクチンの話は第1章だけで、やや期待外れです。

第2章から最終章(第7章)までは、ヘルスケア産業の未来論をプラットフォーマー(第3章アップル、第4章アマゾン、第5章アリババ、第6章CVSヘルス)ごとに紹介する内容です。冒頭のモデルナの記事に書かれている範囲で、モデルナのワクチン開発について簡単にまとめてみます。

まずバイオ系ベンチャーキャピタルというものの存在を知る必要があります。投資の対象となりそうな起業家を発掘して、投資家から資金を集め、起業させ成功させることで収益をあげるというのがベンチャーキャピタル。投資の対象となる分野がバイオであれば、バイオ系ベンチャーキャピタルです。

もちろん、バイオ系ベンチャーキャピタルにはバイオ技術に造詣の深い目利きの存在が必要です。その目利きがフラッグシップ・パイオニアリング(FP社)のヌーバー・アフェヤン氏。アフェヤン氏はMIT出身、アルメニア系レバノン人―と、ここでも移民パワー。

FP社の投資手法はユニークで、外部の起業家に投資するのではなく、FP社内で多くのプロジェクトを並走でパイロット的に走らせ、その中からプロジェクトの成長に応じて資金を投じていくというものです。

具体的には次のようなステップをとります。

  1. 研究室レベルでたくさんのコンセプト(仮説)を立てそれを検証する
  2. 有望なコンセプトは科学的に立証して知的所有権を取得しプロジェクト・チームを作る
  3. コンセプトに基づいたプロダクトやプラットフォームを開発して事業化を進め
  4. 該当のプロジェクトを企業化しCEOを雇いFP社から切り離し新会社とする

そうしたプロジェクトの一つが、mRNA創薬のモデルナ社ということになります。mRNA創薬についてはこまかいテクニックの違いはあるものの、基本的にはビオンテック(ファイザー)とほぼ同じです。

モデルナもまたビオンテックと同じように、対象となるタンパクのもとになる塩基配列さえわかれば、いつでもワクチン化するプラットフォームは完成していたのです。そこに起きたCOVID-19の蔓延。ウイルスの塩基配列が報告された3日後には、ワクチン候補の設計が終わっていたという早わざ。

 ビオンテックよりもさらにDX(デジタルトランスフォーメーション)でITやAIを駆使しているようで、アフェヤン氏に招聘されたモデルナのCEOステファン・パンセル氏と、彼がさらに招聘したチーフ・デジタル&オペレーショナル・エクセレンス・オフィサー、マルセロ・ダミアーニ氏がそれを実現しています。

バイオテックのプロ、経営のプロ、DXのプロが一体となっているわけで、大学の狭く汚い研究室で、大学院生やオーバードクターが試験管を洗いながら実験をやっている日本との違いにがくぜんとします。

まとめと次回予告

mRNAワクチンの開発を主導した人々は、多くが移民やその子どもたち、あるいは留学してそのままその国に居ついた研究者です。彼らの起業家としてのハングリー精神こそが、開発力を支えるものなのでしょう。

ひるがえって日本の保守的な移民政策をみると、移民パワーがこうした先端分野で活用される日が来るとは思えません。それなら日本人でなんとかしていかなくてはと思いますが、男子中学生の一番なりたい職業がYouTuberでは…とてもとても。

さてCOVID-19騒ぎでかすんでしまっていますが、これまで感染症の最大のリスクと言われ続けていたのは薬剤耐性菌です。人類がペニシリン、ストレプトマイシンに始まる抗菌薬のおかげで感染症死から免れるようになって70年ですが、最近になって「抗菌薬」が効かない「薬剤耐性菌」がまん延し、死亡者数が増加しているのです。

次回はこの薬剤耐性菌問題を「ガンより怖い薬剤耐性菌」、「超耐性菌」、「悪魔の細菌」の3冊から読み解いてみたいと思います。お楽しみに。