El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

続・私の本棚 (4)日本のコロナ対策は正しい?

還暦過ぎの元外科医ホンタナが、医学知識のアップデートに役立つ一般向け書籍をセレクトし、テーマごとに同世代の医師に紹介するブックレビューのセカンドシーズン「続私の本棚・還暦すぎたら一般書で最新医学」です。

第4回のテーマは「新型コロナの社会学」です。(ちなみにファースト・シーズン「私の本棚・還暦すぎたら一般書で最新医学を」はこちら

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のワクチン接種が本格化してきました。一年以上たって、新型コロナウイルスそのものやその治療といった医学的なことよりも、実感としては飲食業界の営業自粛や医療への受診ひかえ、ワクチンの供給体制といった社会的な問題のほうがリアリティをもって迫ってくるようになりました。

そこで今回はCOVID-19そのものではなく、それが引き起こす社会の変化、いわば「感染症社会学」を読み解いてみました。

感染症と金と利権の黒歴史を描いた1冊

最初の本「ドキュメント 感染症利権」は「感染症を利用して利権や利益が生み出される」というブラックなテーマ。COVID-19に限らず、医療・衛生の日本近代史もすっきり理解できる一冊です。

COVID-19によってグローバリズムの中で外国から持ち込まれる感染症への対応の難しさもクローズアップされました。日本における最初のグローバリズムといえば、幕末の開国と明治維新。幕末の開国は感染症に対する開国でもありました。

コレラが長崎から上陸し幕末明治に大流行、西南戦争では戦死者よりも病死者が多いほどで、そこから公衆衛生という思想が生まれたとも言えます。

この時活躍するのが日本の衛生行政を確立した後藤新平、そして世界的細菌学者となった北里柴三郎というヒーローたち。この頃は細菌発見の時代でもあり、北里VS東大閥、内務省VS文部省、コッホVSパスツールなどの複雑なライバル関係がありました。

ところが明治の官僚や軍隊が制度的に安定してくると、文部省―東大閥―陸軍という国家権威はそうした個人のヒーローを排除し、官僚と学閥と軍が衛生行政も医学も支配していくようになります。森鴎外森林太郎)も権威の側にありました。

日本の医学部に特徴的な権威主義的医局制度の源泉もこの頃にあります。「医局講座制は効率よく医学を浸透させるメリットを持つが、結果的に閉鎖的で家父長主義に染まった医師集団を生んだ」(本書104ページ)、その通りですね。

20世紀になるとスペイン風邪がCOVID-19と同じ光景を産み出していることに驚かされます。この時も、安倍政権が布マスクを配布した、いわゆる「アベノマスク」と同じように、マスク配布が実施されていました。

軍制に取り込まれた医学が生み出したのが、軍医石井史郎率いる「悪魔の飽食」細菌戦の731部隊です。この部隊が主導して陸軍軍医学校防疫研究室や戦地の防疫給水部が一体となった「石井機関」が、細菌戦のための人体実験を実行。細菌戦は大した実効性もなく敗戦を迎えましたが、恐ろしいことに米軍との関係で免罪を得た石井機関の幹部は一転して戦後の公衆衛生の担い手になっていきます。

今の国立感染症研究所は元予防衛生研究所であり石井機関出身者が要職を占めていました。国立国際医療研究センター(新宿)も国立がん研究センターも、元をたどれば軍関連の施設です。

病院関係だけでなく製薬会社や民間の研究所など医療ビジネス界にも元731部隊関係者が多数流れ込んでおり、いかに石井機関が医学・公衆衛生分野のエリートを集めていたかがわかります。

この戦後の復権で重要な役割を果たしたのが731部隊で石井の片腕だった内藤良一です。内藤は血液産業に目を付け、日本ブラッドバンク(のちのミドリ十字)を設立して戦後の売血大国日本を作り出し、それが肝炎ウイルスの蔓延を引き起こしました。さらに売血の中止と引き換えに血液製剤の販売権を得たことが後の血液製剤によるエイズ禍へと、負の連鎖は続くことになります。

医学の利権化の極めつけはアメリカのバイ・ドール法(1980年)でした。教育・研究機関が科学的成果の特許権(=占有権)を持つことを認めたこの法律のために、研究機関は産業構造に取り込まれ、薬剤利権の下請け状態になったのです。本庶先生もオプジーボで小野薬品ともめていました。そしてCOVID-19の今、ワクチン開発も利権が深く関わっています。

こうした近代の一連の流れを見ると、パンデミックはお金になるという側面はたしかにあります。湯水のごとく税金を投入しても文句を言えない。本書は感染症にからむ政治・利権・金の動きをコンパクトにまとめ読み応えのある一冊に仕上がっています。以前取り上げた「ゴッドドクター 徳田虎雄」を書いた山岡淳一郎氏の筆力に再び唸らされました。

あながち間違っていない?日本のコロナ対策

2冊目は医師でもあり、医療哲学者でもある美馬達哉氏の「感染症社会 アフターコロナの生政治」です。

生政治(せいせいじ=Biopolitics)とはミシェル・フーコーが作った概念。本来、立法と行政と司法という枠組みの中で行われるべき政治が、ある種の危機の中で、そうした枠組みをはずれて、国民を個々の人格としてではなく、生命の集合体(Bio)として扱い、効率的な管理の対象として従属させようとすること。

これが極端になると個人よりも集合体としての利益追求ということになり、ファシズム共産主義にもつながるんですね。

つまり、個々の患者の治療が生物医学的(Biomedicine)であることに対して、政治が社会の規範、倫理を介して、集団としての国民の健康問題に介入することはBiopoliticsとしてとらえます。

COVID-19で考えれば、コロナ病床で実際に行われているのがBiomedicineであり、政府や専門家会議が感染者データなどを基にして国民生活にある種の超法規的な制限を加えている現状はBiopoliticsというわけです。1年以上続くCOVID-19の感染をBiopoliticsから捉えてみて初めて納得できることは多いです。

COVID-19の蔓延を防ぐために人流の抑制など公衆衛生的な手法(非製薬的介入 =Non Pharmaceutical Intervention:NPI )が延々と続けられているわけですが、NPIの基本的戦略は「集団免疫の獲得に必要なトータルの感染者数に到達するという長期的な目標を前提として、短期的な感染ピークが医療のキャパシティを超えないようにする」ことです。

つまりNPIの第一の目的はトータルの感染者数を減らすことではなく感染者の増加速度をなだらかにし、それによってピーク時の病院の混乱や医療崩壊を避けるということです。一方で、NPIによる負の側面、人流の抑制で生業がなりたたなくなる、個人の権利や自由が侵されるということは当然あります。

そこで現実的なBiopoliticsとしては、NPIのアクセルをふむこと(=非常事態宣言など)で医療崩壊を防ぎ、死者数を増やさないようにじわりじわりと集団免疫を目指すと同時にブレーキをふむこと(=非常事態宣言の解除など)で人々の生活が成り立つようにすることになります。

この全体図が腑に落ちれば、日本政府や自治体のやっていることも、一見場当たり的に見えますが、あながち間違ってはいないことがわかります。NPIとは元来そうしたものなのです。

この本が出版されたのは2020年5月なのでワクチンの要素が入っていません。そこにワクチンという要素が加われば、集団免疫の早期達成によるNPIの早期終了が期待できます。

本書の著者の論点はこうしたNPIの解説ではなく、「皆さん、現下のCOVID-19で強化された政府のBiopoliticsに馴致してしまわないようにしましょうね」ということだと思うのですが、私はNPIのメカニズムを再認識することで、政府の対応への理解が深まりすっきりしました。そういう基本的なところをきちんと書いてくれている本として貴重です。

 最近の若者像を通して――アフターコロナの希望

3冊目は、アフターコロナ時代の若者像を描く「若者たちのニューノーマル」です。最近の新社会人は「Z(ゼット)世代」なんだそうです。「Z世代」とはゆとり世代(1987~1995年生まれ)の後の世代のことで、1996年以後に生まれた世代を指します。最近、耳にすることが増えてきました。

この本は「Z世代」という世代論を超えて、アフターコロナの時代に向けた希望も感じさせてくれる不思議な魅力も持っています。

前半は小説風フィクションで、49歳の父親と21歳の息子が肉体だけ入れ替わる(「転校生」や「君の名は。」でおなじみの手法)という設定です。父親が息子になりすましてZ世代の日々を体験します。

Z世代はスマホ・ネイティブ、SNSネイティブという、いわばデジタル革命の申し子世代であり、それ以前の世代の延長線上ではうまく捉えきれないところがあるのです。ところがこのフィクションを読むことで私もZ世代の感覚を疑似体験できました。

そこでわかるのは、まさにコロナ禍の中での若者インタビューを通して著者が感じた最大のポイントは「いま社会で求められていることは、Z世代がコロナ前から求めてきたことだ!」ということです。

印象的な部分を引用します――(309~310ページから引用)


 富よりも「人間らしい生き方」を追い求め、自分や家族、周りの友人・知人の健康と幸せを願う。あるいは、経過より結果を意識しながら生き、働く。業務や健康管理を数値で「見える化」し、中長期的なコスパを実現しようとする。

 動画やSNS、オンラインを効率的に使いこなし、いつでもどこでも誰とでも、既存の枠を超えてグローバルにつながれる環境を創りあげる…。(中略)コロナ禍ですっかり一般化した、テレワークや副業解禁、人材シェアリング、ジョブ型雇用なども、以前から「本腰を入れて、取り組まないと」と、繰り返し求められてきたことでした。(中略)にもかかわらず、私も含め大人たちは「まだもう少し、先のこと」だと思っていました。

 Z世代が、これほど身近で「もう時代は変わったんです」「僕たちが人間らしい生き方を標榜するのは、決して『小さくまとまっているから』でも、『欲がなさすぎるから』でもないんですよ」と、ニューノーマルな価値観を発信し続けていたにもかかわらず、です。――(引用終わり)。

 

コロナ危機、早く収束して以前の社会に戻りたい…と思っている人も多いと思いますが、コロナ直前の日本って少子高齢化や巨額の財政赤字で煮詰まっていたじゃないですか。そんな社会の閉塞感を一番感じていたのが、そこにこれから放り出されるZ世代だったのです。

ところがコロナ対策ということで、テレワークやオンライン授業、企業や人の地方移転といった多くの変化がコロナ以前では考えられないスピードで進行しています。そして社会はもうもとには戻らずこの変化の行きつく先が新しい社会の標準(ニューノーマル)になっていく、そんなZ世代的未来図が現実的になってきました。

さらに巨視的に見ればZ世代に限らず日本社会にとっても、コロナ禍を克服することが煮詰まった日本社会を打開し、次の時代を迎えるためのきっかけになるかもしれない――そう考えると、コロナ禍でもいくらか明るい希望が持てます。

 

まとめと次回予告

 中世のペスト大流行ではヨーロッパで2000万人から3000万人が、全世界でおよそ1億人が死亡したと推定されています。しかし、この破壊が人口の構成と分布を変え、教会のような権威を失墜させ、古い仕組みが機能しないことをさらけ出し、ルネサンスにつながりました。

 コロナ禍も次の世界への地ならしになるのではないでしょうか。アフターコロナの時代になった時、そこに現れるニューノーマルにはZ世代だけでなく昭和や平成を生きてきたわれわれも価値観を大きく変える必要があるでしょう

 さて次回のテーマは「最近の統計学」です。医学を含めた多くの意思決定の場面で、経験やカンの時代から「統計的根拠」の時代になろうとしています。そんな動きを「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」・「統計分布を知れば世界が分かる」・「RCT大全」の3冊から読み解いてみたいと思います。

 次回もご期待ください。