El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ブックガイド(120)ー看取りの現場から ー

気楽に読める一般向けの本で、アンダーライティングに役立つ最新知識をゲットしよう。そんなコンセプトのブックガイドです。第120回目のテーマは「死を看取る」。生命保険でも死亡日時と保険の満期日との関係など、保険金の支払いに大きく関わってくることがありますが、実際に人が亡くなる現場では、いつ死を迎えるのかはかなり治療者や家族の考え方次第で恣意的に変化します。筆者は3か月ほど前に実母の死を看取り、そのことを痛感したので経験も踏まえて看取りの現場について考えてみたいと思います。

取りあげる本は、少々古い本ですが「『平穏死』のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか」です。本書の趣旨は、口から食べられなくなったらそれは「平穏死」を迎えるための準備段階にはいったと考えるべきだいうこと。つまり、「食べられないから死ぬ」のではなく「おだやかな死を迎えるために食べなくなる」ということにつきます。

この本が最初に出てから、数年がすぎ、世間的にも認知症高齢者が「胃ろう」や「経鼻経管栄養」によって命を保ち続けることに否定的な考えは広まっていますよね。「胃ろう」が手術を伴うこともあり「胃ろうはやらなくて結構です」という家族が多くなっているのも事実です。その点においては本書の主張は世間に受け入れられてきていると思います。

ところが「口から食べられない」にもいろいろな形があるんですね。認知症がすすんで意識はないが呼吸と心拍はある―いわば植物状態で当然ながら自発的には「口から食べられない」のですが、それでも「胃ろう」や「経鼻経管栄養」をすることなしでも数か月、長ければ1年以上も生き続けるという事態が生じているのです。

というのは、さまざまな「経口補水液」「経口栄養液」が開発され、それをストローをつかって口腔内に投入し嚥下反射でのみ込ませるというワザが広まっているからなんです。それは、まるで人間の水栽培なんです。

この「人間の水栽培状態」というのは、まさに「隠れ胃ろう」と言いますか、「胃ろうなき胃ろう」とでもいうべき状態です。言い換えれば新しい「植物状態」。恐ろしいのは、その状態に舵を切るという明確な認識がないままに移行してしまうというところです。この状態になってしまうと咳嗽反射が低下し肺炎を起こして呼吸不全になる、あるいは脳や心臓に機能不全が生じる、そんな段階までは植物状態が続くことになります。そんな状態がはたして「生きている」と言えるのかと思いますが、人間なかなか死ねないのです。

じつは、わが母(90歳)がそういう状態で1年以上も生き続けていました。意図してそうなったわけではなく、コロナ渦で面会できない間にそういう状態になっていたのです。意図していないとはいえ、いったんそれが定常状態になってしまうと家族が「それは非人間的だから差し控えてください」と言い出すことには、「死なせてください」ということと同じであり、それには相当なエネルギーが必要であり心の痛みをともないます。そこをなんとか乗り越えて、決断をくだして14日目に母は枯れるようにして息をひきとりました。後悔はないですが、医師の私でも、若干のうしろめたさは残ってしまいます。「隠れ胃ろう」の罪は大きいです。
(査定職人 ホンタナ Dr. Fontana 2024年1月)