El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ブックガイド(129)―親ガチャの本質は?―

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気楽に読める一般向けの本で、アンダーライティングに役立つ最新知識をゲットしよう。そんなコンセプトのブックガイドです。第129回目のテーマは「遺伝か環境か」。

「親ガチャ」という言葉があって、親の職業や収入(つまりは親という環境)によって子どもの教育機会が不平等になり、将来までもが左右されるという話ですね。それはもっぱら親の職業や収入という環境要因の差で子どもの将来が左右されるのは不公平だ、という感覚で使われているようです。ところが親ガチャの本質を考えた時、親の職業や収入なんかよりも「親から子に受けつぐ遺伝子」の影響のほうが圧倒的に大きいということは、みんなうすうす感づいているのではないでしょうか。つまり「親ガチャ」ではなく「遺伝子ガチャ」!

このいわば「遺伝決定論」的な考え方はタブー視されていた時代が長かったのですが、次第に受け入れられつつあります。この「環境→遺伝へのパラダイム・シフト」をめぐって日本での第一人者である行動遺伝学者の安藤寿康氏とライターの橘玲氏の対談をまとめたのが今回紹介する本「運は遺伝する」です。この本を読めば、20世紀後半の歴史的論争を経て21世紀の今「多くのことが遺伝によってすでに決まっている」という現実を直視しなくてはならない時代になってきていることがよくわかります。

最初に遺伝を学問的にとらえたのはダーウィンによる進化論ですが、その仕組みが完全に解明されたのはワトソンとクリックが1950年代にDNAの二重らせん構造を発見してからです。そこから先は生物・生命に関わるほとんどすべてが遺伝子をベースに自然科学的に解明されていく時代になりました。その行きつく先として、やがて生物学者たちの関心が同じ生物である人間に向かうのは必然でした。

ところが20世紀のうちは、ナチスの優生思想がホロコーストを引き起こしたとの反省から、遺伝を人間の領域にもちこむことはタブーとされていたのです。私自身が育った時代を含めて、長い間、人間はブランク・スレート(空白の石板)として生まれ、環境によってどのようにでも変わるという「環境決定論」が主流の時代でした。というのも、「環境決定論」は第二次世界大戦後に訪れた「よりよい社会を目指せばみんなが幸福になれるはずだ」というリベラルな理想主義に見事に合致していたからでもあるのです。

その結果、20世紀の間は人間以外の生き物を遺伝で論じるのは許されるが、人間の能力や性格、精神疾患などに少しでも遺伝の影響があると示唆することは、ナチスと同じ「遺伝決定論」だとして徹底的に批判され学者として社会的に抹殺されるという時代が長く続きました。

「環境」か「遺伝」か、という1970年代から30年ちかく続いた論争では、当初は「環境」=「社会正義」が優勢でしたが、膨大な数の一卵性そして二卵性双生児を対象とした疫学研究などをベースに、社会生物学者や進化心理学者らから突きつけられた大量のエビデンスに対抗できず21世紀には「環境決定論」の劣勢が明らかになっていきました(社会生物学論争)。
 
日本では意図してかはわかりませんが、この社会生物学論争とそれによるパラダイム・シフトがほとんど知られていません。日本の「文系知識人」は、いまだに「知能や性格は育て方や環境で変えられる」という虚構の世界に安住して、発達心理学や教育社会学といった「環境決定論」的な学問が続けられています。

ではどうする?多くが遺伝によってすでに決まっているとわかっていながら、それを無視したり、しかたがないと落胆するのではなく、そうした遺伝的差異を踏まえて社会はどう対処するべきなのか、そして個人は自らの遺伝的要素とどう付き合っていくのか、そんな未来の遺伝学への入門書として最適の一冊でした。(査定職人 ホンタナ Dr. Fontana 2024年10月)