El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

あらゆることは今起こる

ADHD世界にひたってみる

すごく興味をひかれる部分は

最終の診断を受けたあと、ADHDに適用される薬の一つ、コンサータを飲むことになった。

説明を受け、最初の一錠を飲み、しばらくして担当の先生が様子を聞きに来た。
「どうですか」
「あの、こういうことを言うと、大げさかと思われそうなんですけど」
担当の先生が幅広く文学を読む人であることは、検査の途中で知った。
だから言っても受け取ってくれるだろうと思った。
「小学校六年生の修学旅行で夜更かしして翌日眠たくて、
それ以来一回も目が覚めた感じがしなかったんですが、今、三十六年ぶりに目が覚めてます。(P43)

この本を書いた柴崎友香さんと言えば、芥川賞作家でもあり、東出昌大・唐田えりか主演で、その後の不倫騒動でクローズアップされた映画「寝ても覚めても」の原作を書いたのも柴崎友香さん。

で、冒頭に引用したようにこの本はADHD(注意欠陥多動性障害)と診断された柴崎さんが、ADHDとともにある日常の断章を書き綴って1冊の本にしたもの。

読み進んでいくと、ああ、なるほど、こういう文章がADHDの人が書いたものなのだ・・とりとめのなさや脱線、いつのまにか主題にもどってみたり、もどらないままになったり、そうしてそんなふらつきを作家自身もまた自覚しているのだと・・と、最初は客観的に読んでいました。

「片付けられない」「マルチタスクができない(できすぎて動きがとれなくなる?)」などなど、あーそれってあるある、自分の回りにもいたな、あの彼の書いた文章はいくつもの世界を行ったり来たりしてた。ああ、あの彼女はの机は片付けても片付けてもすぐにごちゃごちゃになっていた・・・と。

そうした中でも、彼は今でも仕事を続けているし成功もしている、一方、彼女の方は退職したけどそれはやはり職業遂行上の困難があったのかな。

もちろん、時代の変化というのもあって、昔なら少々ADHD的であってもできる仕事は多かったような気がするし、そうした中で特殊な才覚を認められることもあっただろう。

今の日本の社会が要求する「普通」の枠がどんどん狭く固定的になっていって、自分の医師や感覚に基づいて構想していくとそれだけで普通ではない判定をされてしまったり、「迷惑」とされてしまったりする。
「発達障害」に対する注目や関心が高まっているのは、「普通」枠の要求の過大さと抑圧の強さに比例しているんじゃないかと思う。(P216)

上に引用したような社会状況の分析もちりばめられているが、行き先を間違えたり、遅刻したり、逆に準備をしすぎたり、そんなエピソードが満載。ずっと読んでいると、「ああこのエピソードに似たようなこと自分にもあるなあ」と思うことがだんだん増えてきた、「あれ、自分もある意味ADHDかも?」となること必定です。しらんけど。(この「しらんけど」含めて、全体を流れる大阪弁もなかなかいい味だしてます)

私はそれなりに生活はなんとかできており、おそらく適性を生かせる職業にもついていて、診断がおりるほどではないのではないか、と考えていた。徐々に大人の発達障害に関する本や情報が笛、それを参考に改善できることも多々ある。そのうちに今度は、チェックリストだけのいい加減な診察ですぐに薬を出す医者がいるだとか、なんでもかんでも発達障害にするのは本人の問題だとか、診断を受けることが不安になるような言葉が飛び交い始めた。(P21)

という、状況は確かにありそうですね。私自身も、私のこどものあの部分も、ひょっとしてADHDちゃうんか?と思いつつも日々は流れていく。そんな感じを持っているなら是非、本書を一読することをお薦めします。もちろん、医師やアンダーライターとADHD事情をしりたいという人にも。この本を読んで観れば「寝ても覚めても」も一味ちがうのかも。このあと観てみます。