El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

和解ある老いと死 家族にとっての看取りとは

赤ひげ医療は多死時代に通用するか?

新潟の雪深い地区で老人が寿命を迎えて死んでいく、そこに医師としてかかわる著者による、死に向かう12のストーリー。文章が読みやすくすいすいと読んでしまう。しかし、しかしだ、医師や看護師といった医療者が、死に行くものにここまで関わり老いと死を本人や家族と共有して(=死という現実との和解?)いくことが本当に正しいのか、私には、はなはだ疑問。

欧米では宗教者が担うことを日本ではなぜ医療者がやっているのか。そこには死後の世界しか関わろうとしない日本の宗教者(≒僧侶)、不合理に生に執着する臨死者や家族、宗教者気取りで科学的合理性を無視して介入する医療者自身・・・そういったきわめて日本的な要素の組み合わせがあるのではないか。

看取りには「死という現実との和解」が必要であり、そのために当人も家族も医療者もエネルギーを使わなくてはならない、エネルギーを使ったことで「和解」へ向かうことができるーそういう図式がわからないではないが、そこに医療者が組み込まれるているのはきわめて日本的な現実であり、医療資源の浪費。

今は出生数は年間80万人程度だが、団塊世代は年間260万人!彼ら、彼女らが臨死期を迎える10~20年後の多死社会で、医師が僧侶の役割を果たすような「赤ひげ診療」が成り立つとは思えない。

そんなふうに思ってしまうのは、65歳にしてまだまだ自分が青いのかもしれないが、老医が「赤ひげ」気取りで終末期医療に参入することに、なんとなく納得いかないものを感じてしまう。

本書は鷗外の孫で医師の小堀鷗一郎氏の著作に導かれて読んだのだが、自分の中ではやはり納得いかない部分が残る。