清盛の被害妄想が平家没落を加速する1180年(治承4年)
以仁王・源頼政の打倒平家の旗揚げ(治承4年 1180年5月)。しかし、三井寺と叡山と興福寺それぞれの宗教勢力の利害が絡み合うことで、この乱そのものは平家の大軍勢によって宇治平等院で頼政が敗死し奈良に墜ちようとした以仁王も討たれてしまう。
しかし、そんな反乱が起こったことそのものに過剰に反応した清盛は都を京から福原(神戸)に遷都して、法皇(後白河院)、上皇(高倉院)、安徳天皇とすべてを支配下に置こうとする。するとどうなるか・・・
東国の主だった武将は京都の警備という名目で、人質代わりの一族代表を勤番として京都に据え置かれていた。そうした東国武士を制御していた仕組みそのものが福原遷都であいまいなものになってしまい、東国の平家支配に緩みが。これがこの巻の前半。
後半は「鎌倉殿の13人」の世界に繋がっていく。重盛の若死にもあるが、清盛があまりにワンマンで集団政治化できなかったために、優秀な跡継ぎがいない、というただそれだけで滅びの道を進んでいくことになる。
頼朝の挙兵(同年8月17日)もそうそううまく進んだわけではないが、そこでもまた清盛の浅慮ともいえる大追討軍の派遣があり富士川の戦い(同年10月20日)へ・・・というところで最終巻へ続く。
この流れをみていると、権力を握ったら官僚機構を集団化して個人としての後継者の資質によらない永続性を目指すべき、しかしそうすると官僚機構を動かす中心人物に権力が集中して、それまでの権力者はお飾りに据えられてしまうーという権力交代の日本的(?)パターンの存在意義もなんとなく理解できる。創業者が死ねば倒産してしまうようでは・・・