El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

忘れる脳力

記憶と忘却のメカニズムーけっこうためになる!

怪しい脳科学本と思ってしまいそうなタイトルだが、千葉大の脳外科の教授で脳の基礎研究の実績も十分な岩立康男先生が「脳の記憶と忘却のメカニズム」最新の知見を新書一冊でやさしく解き明かしてくれる。

1.記憶と忘却のメカニズム

短期記憶は海馬で作られ、その中から重要なもの(何度も想起されたり、情動をともなうもの)は大脳皮質に保存される。記憶が作られるとか保存されるメカニズムはニューロンのシナプス(接合部)が新しくできるというわけではなく、シナプスの周辺構造がタンパク質によって特定のシナプス(群)の反応性が高まることで起きる。電気信号がシナプス周辺での化学物質信号に翻訳されるようなもの。このあたりは「つむじまがりの神経科学講義」でも紹介した。

海馬には大量の情報が流れてきて短期記憶されるわけだが、その中で本当に重要な情報は時間をかけてゆっくりと大脳皮質に移す。海馬に来た大量の新しい記憶のうち大脳皮質に移されなかった大半はそのまま忘れられていく。

海馬では新しい記憶が入ってくれば古い記憶は消えていくしくみになっている。記憶は化学物質信号(具体的には作られたタンパク質=アミノ酸の鎖の立体構造)により成り立っているので、忘却は、①時間がたてばこの構造が劣化して記憶が薄れる、②記憶のためのタンパク質を積極的に破壊するタンパク質(Rac1)の存在がある、などのメカニズムで起こる。いずれにせよタンパク質の構造変化で古いニューロンが退縮し消えていく、そのスペースに新生ニューロンが発生し次の記憶の担い手となる。つまり脳は海馬において積極的に「忘れる能力」を持っている。

また、海馬→大脳皮質へと記憶を移動させる神経回路そのものは幼少期に形成されるので小児期~10歳くらいまでの回路形成がその後の人格形成に大きな意味を持っている。その時期に育児を他人任せにせざるを得ない現在の労働環境は恐ろしい結果を産むかもしれない。

何に対して怒りを覚え、どんなことに喜びを感じるかといったことは、人生の在り方を大きく変える要素となる。だからこそ、10歳頃までにどんな経験をさせ、どんな思いをさせるか?という点が非常に重要になってくる。子どもがまだ小さいうちに、「人生はこんなに楽しいものだ」ということを刷り込んでしまおう。「自分の存在を皆が喜んでいるのだ」ということを脳の奥底にたたき込んでしまおう。その記憶は一生残り、人生最大の財産となるはずだ。

2.情動と記憶

強い恐怖や大きな喜び、悲しみ、そうした情動(情動は海馬に隣接した偏桃体で発生する)とリンクした記憶は、繰り返しの想起などを通して強化され大脳皮質に移行する。では「いやな記憶をどうやって消すか?」、考えなければいい、しかしどうしてもくよくよ考えてしまうもの。そんなときは逆説的だが、そのいやな感じ、不安感に一度どっぷりとつかって十分に落ち込む、落ち込んで何もやる気が起きず、ぼーっと過ごす時間は、そのことを記憶に残しにくくするそうだ。(このあたり難しい)

脳における集中系(集中して何かをやるときに働く部分)と分散系(ぼんやりしているときに働く部分)というものがあって、分散系優位の状態で記憶に残らないようにし、その後に別の何か新しいものに集中することで、情動から離れていく・・そんなイメージだ。情動に引きずられないように、いったんはクールダウン。

真実は「記憶の中」にあるのではなく、それを振り返っている「今の自分の気持ちの中」にあると言ってもいい。過去を悔やんでいる自分も、どんどん自動的に過去になっていく。嫌な記憶も含め、どんな記憶も必ず時間経過で薄れていくものである。・・・悪い記憶は忘れようとするのではなく、その出来事をまずはそのまま受け止めて、未来志向の解釈を加えたうえで「放っておく」ことが重要である。

忘れることは新しい記憶を獲得するために重要なプロセス。そして脳がきちんと忘れられるように、睡眠と運動・・・納得の結論。