El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

京都不案内

「京都はだれもが苦手」、そこから一歩進むには?

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せっかく関西に住んでいるのだからと、定期的に京都や奈良にでかけて寺を巡ったりしている。奈良は友人が住んでいたり、馴染みの呑み屋ができたりしたのだが、京都はどうもまだまだ「お客さん」状態だ。そこで知っている著作家の京都本が出ると読んでしまう。

著者は、「谷中・根津・千駄木」いわゆる「谷根千」のミニコミ地域情報誌で有名になったが、わたしはちょうどその頃、大学院で千駄木に住んでいたので「谷根千」も読んでいたという縁がある。

本の帯に「京都を暮らすように旅するー。」とあるが、読んでみると「暮らすように旅する」には、京都人の知り合いがそれなりの数いることが必要だと思う。

あくまでも「一見(いちげん)さん」は「つかの間のお客」としてしか扱われない、それが京都の土地柄。もちろん外来者に冷淡なのはどこの町でもあるだろうが、町の歴史が浅かったり、そもそも外来者が主体でできた町(東京や大阪)では、外来者を取り込んでいかなくては町がなりたたない。そういう意味で、外来者を一見さんあつかいしても成り立つし、それが一種のシステムになっている・・・と、思う。

本書は、そういう京都人たちとの交友関係あってこその文章ばかり。それは著者がこれまで著作を書く段階でインタビューしたり関連書籍を読んだりする過程ですでに「一見さん」ではなくなっていたからこそ書けたのだろう。「あの人とあの人がこんな関係で・・・」とか「京大の先生御用達で・・・」というネタが多くて、「一見さん」のそして人見知りの男である私にはなじめない。

それでも、そういう内側に入った人にしかわからない話も多く、特にインタビュー(その中でも梅棹忠夫の妹・田中ふき子さんのインタビュー)は、京都人の独特の強さに感銘した。

「はじめに」で著者自身も「私は京都がなんとなく苦手だった」とある。ああ、やはりそうか、京都は苦手というのは非京都人の共通感覚なんだ。だから、数少なくても京都人の知己を頼りにして少しずつ「一見さん」から脱するしかないんだ。