El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

新・私の本棚 (3)女性起業家に騙された!医療ベンチャー詐欺を医師が読み解く

65歳すぎの元外科医ホンタナが、医学知識のアップデートに役立つ一般向け書籍をセレクトし、テーマごとに同世代の医師に紹介するブックレビューのサード・シーズン「新私の本棚・65歳超えて一般書で最新医学」の第3回。

今回のテーマは「医療・医学がらみのFact or Fake?」――ネットニュースやSNSだけでなく、政治の世界でも何が真実で何がうそなのかわかりにくい時代です。さらには、真実であるかどうかが立場によって異なったり相対的なものであったり、ポスト・トゥルースということなのでしょうか。

セラノス事件 知ってますか?
米医療ベンチャー企業の嘘を暴いた話題作

1冊目は『BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相 』。少し前にアメリカの医療ベンチャー界で起きた指先採血がらみの世紀の詐欺事件、実話です。セラノス事件というのですが、ご存じでしょうか?

とにかく上昇志向の強い、若き女性起業家エリザベス・ホームズが「指先採血で採取した数滴の血液から80種類もの検査がその場でできるという夢のような検査法」をコンセプトに「セラノス」という会社を立ち上げ、バイオメディカル分野のスタートアップ企業として莫大な資金を集めました。

コンセプトが実現するという前提で、その資金を用いて多くの研究者を集め研究開発を進める一方、自分自身はあたかもすでにそれが完成したかのような振る舞いで世間から注目されることで、さらに資金を集めます。

普通なら、コンセプトの時点で怪しまれそうなものですが、ここまで資金を集められたということは、彼女になんらかの不思議なカリスマ性があったのでしょうね。ホームズと出会った人たち、特に高齢の元政治家や投資家(シュルツ元国務長官、キッシンジャー元国務長官、ルパート・マードックetc.)をすっかりとりこにし、莫大な投資を引き出したり会社の役員に据えたりするなど、まさにやりたい放題です。

ちょうどリーマンショックが終わって、FacebookやTwitterがスタートアップ企業として莫大な投資収益を上げていた時期です。多くの投資家が“次のFacebook”を探していたともいえます。

その流れにのって資金を集めたはいいけれど、「指先採血で採取した数滴の血液から80種類もの検査がその場でできるという夢のような検査法」そのものが実現できなかったというのが詐欺の始まりです。それでもどんどん契約を前にすすめるホームズの図太さといいますか、心臓の強さに驚きます。

結局、新しい検査装置を使ったふりをして、裏で既存の検査装置で検査するなど偽装工作を重ね、次第に本格的な詐欺に追い込まれます。

一方でマスコミはホームズを大絶賛し、オバマやクリントンも広告塔に。当然、セラノスの社内は怪しげな検査で火の車状態となり、退職者も続出。挙句の果てに自殺者まで出してしまいます。

やがて退職者からの内部告発をもとに、本書の著者であるウォール・ストリート・ジャーナルの記者ジョン・キャリールーがすべてを暴くこととなります。

その過程での、セラノス側からの弁護士を使った脅しの手口も、とても恐ろしいものがあります。アメリカでは資本力がなければ裁判も戦えないので、泣き寝入りさせられることも多いというのがよくわかります。

 強く興味をひかれるのは、ホームズがどうして開発のすすまない検査装置に対する不安をまったく感じずに、プロジェクトに突き進むことができたのかという点と、キャリアも年齢も百戦錬磨の“おじいさん”たちが、いとも簡単にだまされてしまった点ですね。

写真で見るホームズは魅力的に見えます。何が彼女をそうさせて、何が彼らをそうさせたのか。こんなインチキで何百億ものお金が動くというのが、投資社会アメリカの驚異的な側面ですね。

なお、コロナ禍のために遅れていたセラノス裁判ですが、最近有罪評決が出ました

ハイテクやITCの分野、さらには最近のいわゆるグリーンテクノロジー(脱カーボン)業界では、まずは大風呂敷を広げて資金を調達し、本当の進捗状況を隠しつつ、いずれ現実がコンセプトに追いつくのをただ願う…そんな風潮が許されているのも事実です。夢を語って金を集め、集まった金でその夢を実現させるというタイプのベンチャーです。しかしバイオ、特に直接患者の治療に関わる分野では、セラノスのように夢を実現させる途中で患者や健康を求める被験者に実害をもたらしかねません。

それがヘルスケア・スタートアップの難しさですね。「血液一滴、尿一滴でがんを発見する」などという話は日本でも跋扈(ばっこ)していますが、その内実は「セラノス」と大差ないのかも…そんな批判的な眼で見ることの必要性を感じさせる事件です。

アルツハイマー病の薬をめぐる謎・謎・謎

2冊目のタイトルは『アルツハイマー征服』。この本自体がフェイクというわけではありません。この本は、アルツハイマー病の治療薬開発の歴史を年代ごと/研究者ごとに並べてくれており、その歴史を知るためには非常に役に立ちます。

前半はエーザイがドネペジル(アリセプト(R))の開発・商品化によって、世界的企業になるまでが描かれます。ドネペジルはコリンエステラーゼ阻害薬であり、アセチルコリンの分解を抑制して脳内のアセチルコリンを増やすことで神経細胞を賦活し、症状の改善をめざそうという薬剤で、認知症の進行を数年遅らせるといわれています。

ただし、対症療法に過ぎないといえばそのとおりで、神経細胞の脱落という根本原因を治療するものではありません。

 そこで、エーザイを含む多くの企業が根本的治療薬の開発を目指しています。開発の基本となるのはアミロイドβ仮説。

「アルツハイマー病の発症は、アミロイドが脳の中(ニューロンの中)にたまっていき、凝集し、βシート構造になって細胞内に沈着する。これがアミロイド斑(老人斑)で、それがたまってくると、ニューロン内にタウが固まった神経原線維変化が生じニューロンが死んで脱落する」という仮説です。

そこで、アミロイドに対する抗体を作成して投与することで、ニューロンにアミロイドが蓄積しないようにするというのが、多くの研究の方向性となっています。

 そして製品化されたのがアデュカヌマブ(本のカバーにも「根本治療薬『アデュカヌマブ』承認か」とあります)。

私にはこのアデュカヌマブが、やはりどこかすっきりしません。アミロイドに対する抗体を投与した場合の反応系が素人目にはっきりしない。アミロイドを内部にもつニューロンを攻撃すると、ニューロン自体が死滅することになるのではないかと考えますが、そこはどうなんでしょう。

効果判定についてはRCT(ランダム化比較試験)が行われているわけですが、アルツハイマー病に対する効果判定というのが、認知機能や記憶力というあいまいで客観的に評価しにくいものを指標にせざるを得ません。

アルツハイマー病は原因も仮説、それなのに抗体医薬を作り、その効果判定の客観性もいまひとつ、そんなふうに考えてしまいます。

そうしているうちに驚きのニュースが! 2022年6月の『サイエンス』が「アルツハイマー病の発症原因にアミロイドβが関連しているという仮説の基本となる2006年のレーヌ氏の論文について、研究結果の画像が操作され、結果が捏造されたおそれがある」と報じたのです。

この研究論文はこれまでに2269本の学術論文で引用されているアミロイドβ仮説の根拠を支える重要論文でしたが、この論文が捏造かもしれないとは…驚愕です。

一方で9月28日に「エーザイ・バイオジェン レカネマブ最終治験で「勝利」症状悪化27%抑制」という報道。これによると、エーザイとバイオジェンは9月28日、共同開発しているアルツハイマー病治療薬レカネマブについて、早期アルツハイマー病の患者を対象とした大規模臨床試験で症状の悪化を抑制したと発表したようです。

いわく「治験は日本や欧米、中国でアルツハイマー病早期患者1795人を対象に、レカネマブを投与したグループと偽薬のグループを比較した最終段階のもの。投与から1年半後、レカネマブのグループでは、記憶や判断力などの症状の悪化が27%抑制された」。

これってどうなんですかねえ。「投与から1年半後、レカネマブのグループでは、記憶や判断力などの症状の悪化が27%抑制された」とありますが、この奏効率が大騒ぎするほどのことなのか、よくわからないのに株はストップ高と…こうなってくると何が真実かよくわからない。認知症治療薬、そもそも可能なのかを含めてまだまだ紛糾しそうです。

不可解な点も? 線虫によるがん検診とは

最後の一冊『がん検診は、線虫のしごと』は、寄生虫の線虫がにおいでがんを診断するというちょっとローテクな話題です。線虫の嗅覚を研究していたという著者の広津氏が線虫の嗅覚と「がん患者の尿のにおい」を結び付けて、線虫で「がん検診」すれば精度は9割だったと主張するのが本書です。

この本を読むと「精度9割(87%)」という表現は「陽性的中率=がんの人の尿で陽性になる率」のことのようです。こうした検査では「陰性的中率=がんでない人の尿で陰性になる率」も重要なはずですが、漠然と「精度9割」と出てきて、具体的な陰性的中率・偽陽性率・偽陰性率などの統計的数値はなにも書かれていません。

 線虫が反応するメカニズムについては「がん患者の尿のにおい」の一点張りで、具体的には尿の中のなにに反応しているのかもわからないですし、そこを追求した形跡もありません。

線虫ががん患者の尿には近づき、健常者の尿からは遠ざかるという、観察結果の根拠がいまひとつわかりません。これを「がん検査」に使うからには「がん患者の尿の特定の微量物質Aに反応して近づく」という因果関係が証明されるべきだと感じます。

しかし微量物質Aが特定できたら線虫の必要性がなくなるわけで、そういう意味ではこの線虫検査は「人智にはわからない微量物質のにおいを線虫が嗅ぎ分ける」という、少しファンタジーじみた話になるのかなと思います。

途中に線虫を介在させることで因果推論をあいまいにしていることは否めないので、広津先生にはぜひそこらをはっきりさせてほしいです。

頭から否定するわけではありませんが不明瞭な点が多く、アイデアは面白いけれどすぐには信用できないレベルの話のように思いました。その後、文春砲に撃たれたようですがテレビ・コマーシャルは続いています。どうなっていくのでしょうね。

まとめと次回予告

セラノス事件のような詐欺事件の悪質さはいうまでもありませんが、アルツハイマー病のアミロイドβ仮説の研究論文の不正疑惑は、その後それを前提に研究を続けてきた世界中の研究者・企業がどれだけの影響を受けるのかを考えるとぞっとします。

それに比べれば線虫によるがん検診は、ファンタジックで少し心が和むような気が―――おっと、こうして感想を書きながら、なんとなくフェイクが世の中に普通に存在することを許容している自分に驚きます。そんな時代…なんでしょうか?

さて、次回はあくまでもファクトで! 最近の脳研究はどうなっているのかを3冊で読み解いてみます。ラインナップは、オーソドックスな神経細胞やシナプスについてを『つむじまがりの神経科学講義』から、そしてニューロン以外の脳組織に重点をおいた『脳を司る「脳」』、さらに脳を一つの機能体としてとらえる『バレット博士の脳科学教室7½章』の3冊です。お楽しみに。