El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

新編 閑な老人

尾崎一雄と意外な接点があった

コロナ禍で中断していた東京出張に3年ぶりに行ってきた。某学会での特別講演(とはいっても30分という短いもの)を依頼され、ここのところその準備、特に30分におさめるには何度かリハーサルが必要。今は、iPhoneでパワポファイルを見ながら同時に音声を録音できる。30分に収まったところでその音声ファイルを何度か聴いておけば、まあ大きな間違いは起こらない。便利な時代になったものだ。

というわけで、10月は本が読めていない。その特別講演のネタ本を3冊ほど取り上げておく予定だが目標の10冊は厳しいかも。

出張中にKindleで尾崎一雄「新編 閑な老人」を読んだ。私小説というか、身辺雑記を積み重ねて自分史になるというか、そんな不思議な味わいの本。尾崎一雄は曽我(現在小田原市に編入)の宗我神社の神官の家柄で人生の半ば以降は曽我に住んでいた。もともとは少し北の松田(小田急線新松田駅)あたりの豪族だったらしい。事務本社が松田にあった頃、長年通勤したし、小田原にも住んだ私としては懐かしい地名。

Kindle読書の良いところは読みながらポイントになる文章を選んでおく(指で押さえるだけ)と読後にその一覧をメールで自分に送り、それを見ながら振り返ることができること。ちなみに本書では尾崎一雄の生き方がよく出ているのは・・・

  • 誰も彼もが、そもそも生あるかぎり、何かに化かされているのではないか、という気持がしきりとする。いや、化かされていることが、即ち生きていることなのかも知れない、そして、化かす奴の正体は、人間には皆目判らない、――そんなことが思われてならない。

  • 私の中に自動制御器のようなものが取りつけられたのは、敗戦前後の長患いを経てからである。その器械の働きによって、私はあらゆる面で、やりすぎ、エクセスというものと縁が遠くなった。

  • つまらぬこともなで廻していると面白い。

  • 本来私は、生まれて死ぬのではなく、生かされてそして死なされるのだと思っている。私自身の意志にかかわりなく、断固として私を生かし、そして死なす力のあることはわかっても、それが何なのかはわからない。わかりたいと思うが、わかりそうでない。恐らくそれは、小さな人間の頭の中にははいり切らぬものなのだろう。

  • 知らぬ間に自分というものが在り、知らぬ間にそれが無くなってしまう。実に実に不思議なこともあればあるものだ。世の中には「それが何で不思議だ」という顔をした人も結構いるのに、私は年をとるにしたがって子供っぽくなる。

一方、編者の荻原魚雷の編集意図もなかなかよい。

  • 新編では、尾崎一雄が様々な困難を乗り越え、楽しげな老後を迎えるまでの軌跡がわかるようにしたいと考えた。

  • 真っ正面から苦難に立ち向かうのではなく、力を抜いてかわしたり、いなしたりする。尾崎一雄の作品はそんな人生知の宝庫である。長い歳月をかけ、身辺雑事を突きつめ、自らを磨き上げてきた人物ならではの芯の強さがある。

  • 私小説を大きく分別すると、自由奔放な破滅型と自己の完成を目指す調和型の作家がいる(わたしはどちらも好きだ)。 尾崎一雄は調和型の代表格の一人。