El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

死にかた論

もっと科学的になってほしい。

発達した脳が「自己」というものを持ったために「死」が「自己の喪失」となってしまった。「自己」が「自己の喪失」を理解できない、納得できない、それはまあ当たり前のこと。「自己の喪失」=「死」をぼんやりとでも納得するための方便が宗教であった(と評者は思う)。

しかし、科学の発達で理不尽な「死」(天然痘や結核などなど)が激減したため、「死」に到る前に、肉体は生きている状態で「自己を喪失」する(認知症などなど)事態になってきたのが現在。

そうした「死の変質」の中で、本書のように旧来の「死生観」を持ち出してあれこれ言ってもぴんとこないです。

有性生殖というメカニズムによって多様に進化してきた結果として今の人間があり、その有性生殖というメカニズムそのものが死を宿命としていることが科学的に解明されてきたのは、もはや常識。

であれば、科学的に納得して従容として死んでいけばいいんじゃないですか、残った世代にコストや手間をかけずに。・・・と、職業的にどうしてもニヒリスティックな見方になるが、もっと死がリアルに近づいてきたら変わっていくのかしら。いや、変わりたくない。