El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

変容

「変容」している自分に気づく2度目の「変容」

短期間ながら北海道(富良野・札幌)を旅行中。移動時間(札幌ー富良野は2時間以上かかる)を利用して北海道出身の作家の作品を読もうということで伊藤整(いとう・せい)の「変容」を読んでみた。

実はこの小説、2018年1月に一度読んでいる。

ところが、二度目の「変容」を4年ぶりに読んでみたところ・・・うーん、かなり「昭和の男」小説っぽい。そして、4年前のレビューを書いた自分もまた、「昭和の男」っぽいと感じてしまう。ということは、この4年の間に読み手である自分自身こそが変容した!?ということなのか。

この期間の出来事を考えてみると、コロナ禍でテレワークの時間が増えた。オフィスワークだと男性陣と女性陣は仕事上のやり取りはあるものの、日常的なおしゃべりや、ランチなど男は男どうし、女は女どうしというのが普通だった。

ところが、テレワークになると仕事にせよちょっとしたプライベートな会話にせよ性差を意識することが減って、もともと女性職員が圧倒的に多いこともあり、いつの間にか会話の相手の比率はかなり女性優位になってしまった。そして自宅でも一緒にいるのは妻。

というわけで、私の感覚ではコロナ禍でジェンダーフリーが進行して、自分自身の中でもあまりジェンダーを感じなくなっている、いやむしろ女性の立場で考えることが増えているような気がする。

そんな中で本書を読み直すと、男性として性に固執する主人公やそれを書く作者に違和感を感じてしまう。もちろん伊藤整が女性礼賛している部分もあるのだが、あくまでも男の自分の性的パートナーとしての女性観なんだよね。そこがちょっと古くさい、昭和男だ。

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まだ6月だというのに全国的に猛暑で梅雨明けとか。一方、北海道は20℃前後と肌寒いくらい。おまけに蝦夷梅雨だとかで雨模様。まあ、それもまた旅情を増してくれるというもの。中之島公園にある北海道立文学館で伊藤整やその作品をモチーフにした版画の絵葉書(畑中純)を購入。