El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ヒトはなぜ「がん」になるのか 進化が生んだ怪物

「がん遺伝子パネル検査」もしょせんは商業主義・・

著者のキャット・アーニーはイギリスのがん研究基金「キャンサー・リサーチUK」の科学コミュニケーション部門で12年間働いたのちサイエンス・ライターとして独立した女性。がんについての知識と人脈が豊富で、そのキャリアが本書を生んだ。

難解ながん研究の最前線を一般人にわかりやすく、というとシッダールタ・ムカジーの「がんー4000年の歴史」(2013年発刊・2016年文庫化)がよく読まれているが、いかんせん10年経ち、この10年間にこの分野ではさまざまなことがあったことを考えるとやはり古い。

一方、本書の原著は2020年発刊で引用文献などからみて2019年までの出来事が織り込まれている。現時点でがん研究の最前線のここまでの情報が一般書で読め、その目くばせの範囲を考えると医学書よりも優れたものになっていることは驚き。

この10年間でがん研究と治療での最大の出来事の一つは「がんゲノム医療」の登場だろう。それは、次世代シークエンサーの普及とがんに対する分子標的薬の開発がもたらした。具体的には、2015年に当時のオバマ大統領が一般教書演説で「Precision Medicine」と言い出し、それが日本では「個別化医療」と訳され、具体的には「がんの原因となっている遺伝子異常をターゲットとしたがんゲノム医療」の流れとなって行った。

それは日本でも2019年に「がん遺伝子パネル検査」となってコロナ前の医学界ではある意味目玉商品みたいな扱いだった。それから3年経ったが、何だか忘れられようとしているようなーコロナのせい?という印象だった。

ところが本書を読むと、すでに2012年には人体の中のがんはがんになった後もさまざまに遺伝子変異を起こしておりいわばがんとして進化していることがわかっていた。つまり、がんの遺伝子プロフィールは動的で、がんは遺伝子的に異なる細胞集団のパッチワークのようなものなのだ。

そうなると、がん組織を摘出し標本としてすりつぶして遺伝子パネル検査をしてみたところで、それは摘出した時期と部位(すりつぶせばみんな混じってしまうが)によって結果がちがってくる。そんなわけで同じがんの遺伝子パネル検査を二つの検査機関に出したら結果と推奨する抗がん剤がちがっていたという笑えないエピソードも。

肺がんの抗がん剤治療で最初は効果があっても次第に効かなくなって再発してくることはわかっていたのだが、何となく遺伝子プロフィールがAからBへとドラスティックに変わったような理解をしていた。そうではなくて、多数の遺伝子変異のパッチワークのうち目立つものをたたけば、たたかれなかった変異をもつがん細胞がのし上がってくるという、抗生物質と耐性菌みたいな関係だったということ。

そもそも、美容整形(まぶたの切除)で得られた皮膚の遺伝子を調べると、そこにはがん遺伝子を含むさまざまな遺伝子変異がすでに蓄積しているらしい。生れ落ちてから遺伝子は変異や修復や修復エラーなどさまざまに変化しながらなんとかかんとか生き続けている。いや、むしろ、その変化こそが人間が人間に進化した原動力でもあった。

そんな中で、増殖し続けるという変異が実体化した場合をがんと呼んでるだけのことなのだ。と、この本を読んで自分の中ではパラダイム・チェンジしましたね。勉強になりました。

「がん遺伝子パネル検査」や超高価な「分子標的薬」の商業主義に踊らされていた部分もあるのだろうな。

(以下は出版社情報)

ヒトはなぜ「がん」になるのか :キャット・アーニー,矢野 真千子 | 河出書房新社

「がん」は現代人特有の病ではなく、生物システムに最初から組みこまれたバグである。がん細胞が体内で文字通り「進化」するという、驚きの事実を解明。未来の治療の可能性に迫る!

「これは、がんについての話ではない。生物についての話だ。私はみなさんに、がんは人間だけがなる現代病ではなく、生物の基本システムに最初から組みこまれたバグであるという話をしたい。(中略)さらに、地球の生き物の広大な多様性をもたらしたのと同じ進化の力が、がん細胞の進行と拡大に作用していること、その力を逆に利用することでがんを抑制できる可能性があることについても語りたい」(本文より)

【目次】

  • はじめに
  • 第1章 地球に生命が生まれたところから話は始まる
    がんは現代病なのか?
    先史時代・古代のヒトのがん
    古代がん研究の可能性と課題
    すべての生き物はがんになる
    がんになりやすい動物、なりにくい動物
    サイズは関係する?
    生き物たちのがん防衛戦略
    がんにならない動物
    ところで、現代の暮らしは関係あるのか?
  • 第2章 がんは生きるための代償である
    裏切者のアメーバ
    ルール破りという問題
    共同生活のメリットとデメリット
    やっぱり自由になりたい
    裏切者は排除できない
  • 第3章 がんはどこからやってくる?
    細胞の中をのぞき見る
    遺伝子は突然変異する
    塩基配列を読む
    遺伝子の損傷は特徴的なパターンを残す
    ウイルス由来のがん
  • 第4章 すべての遺伝子を探せ
    化学物質発がんとウイルス発がんが出合う
    染色体異常発がんが加わる
    家族性のがんもある
    がん遺伝子とがん抑制遺伝子
    変異のパッチワーク
    正常とは何だろう?
    危険な変異があっても、がんになるわけではない
    がんは、いつからがんになるのか?
  • 第5章 いい細胞が悪い細胞になるとき
    環境に最も適応した細胞が生き残る
    加齢は環境を変える
    炎症も環境を変える
    環境次第で細胞のふるまいは変わる
    子どもでもがんになるのはなぜ?
    がんができやすい臓器、できにくい臓器
    予防について考えてみよう
    いつまでも若くありたいけれど
  • 第6章 利己的な怪物たち
    がんの進化系統樹を描く
    ダーウィンの慧眼
    樹の幹か枝か、それが問題だ
    線形モデルから分岐モデルへ
    進化のるつぼ
    染色体の大爆発
    起死回生の賭けに出る
    がんが向かう最終目的地を知る
    目的地に至るルートはそう多くない
  • 第7章 がんの生態系を探索する
    腫瘍内部の景色を見る
    がんの居住地を進行形で理解する
    環境が病気をつくり、病気が環境をつくる
    新しい血管をつくる
    がん細胞は新天地をめざす
    還元論から全体論へと視野を広げる
  • 第8章 世にもけったいながんの話
    がん細胞がセックスする?
    二つの細胞が融合して娘細胞を産む
    タスマニアデビルのがん
    がんが個体間を飛び移る
    イヌのがん
    二枚貝からハムスターまで
  • 第9章 薬が効かない
    プレシジョン・メディシンへの過剰な期待
    新薬は従来の薬よりどれだけいいのか?
    どこまで経済的合理性があるのか?
    複数の薬をカクテルする
    先端テクノロジーを投入する
    ジョッシュの症例
    がんゲノムをまるごと眺める
    ゲノムの損傷パターンから治療法を探す
    進化から学ぶときが来た
  • 第10章 進化を味方につけてゲームをする
    全部を殺さず、少し残す
    がんを手なずける
    今後の課題は?
    おとり薬、二重拘束、良性ブースター
    種の絶滅から学ぶ
    ゲーム理論に学ぶ
    死を無駄にしないために
  • 第11章 がんとのつき合い方
    流れを変えよう
    心の持ち方を変えよう