El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

保守主義とは何か

「進歩主義」の時代の終わりに

「今日と同じでない明日」、そんな時代があった。そんな時代は大きな変革・革命・戦争で始まる。フランス革命、ロシア革命、日本で言えば明治維新や1945年の敗戦。そういうガラガラポンがあって過去を清算して新しい世界を作る、それが「進歩主義」。しかし、進歩主義の行きつく果ても結局は停滞であることは歴史が証明したし、今現在、われわれも停滞の時代にいる。

「保守主義」とはそういうガラガラポンを否定する。伝統と歴史を重視し不具合を修正しながら過去につながる明日を愛する、それが「保守主義」。「保守主義」の本家はガラガラポンなしに帝国となったイギリス。そしてアメリカ。

系譜をたどれば、エドマンド・バーク、T.S. エリオット、G.K. チェスタトン、ハイエク、オークショット。アメリカではヴィーヴァー、ラッセル・カーク。アメリカには反知性主義、リバタリアニズムと流れてフリードマン、ノージック。一方、別の保守ネオコン側からの保守革命(レーガン)となるが。このあたりまで来ると本来の「保守主義」と混淆して判然としなくなってくる。

判然としなくなってきたのは、「保守主義」のカウンターパートである「進歩主義」そのものが行き詰りを見せているからでもある。工業化・電子化・グローバル化の果てにもはや「進歩主義」では立ち行かないことがわかってきた、そういう世の中で若者たちがそもそも保守的だったりという現象がおこる。

そこで本著の「はじめに」にあるチャーチルの言葉「20歳のときにリベラルでないなら情熱が足りない。40歳の時に保守主義者でないなら分別がたりない」にもどる。私も含めて「進歩主義」の長い戦後を生きてきた世代は、今でも、60歳でも「進歩主義」を是としているのではないか、まさに分別が足りない。この本によって真の保守とは何かを考える。