El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

感染症社会 アフターコロナの生政治

 論点と違うところで、日本のコロナ対策に納得してしまった!?

生政治(せい・せいじ=Biopolitics)とはミシェル・フーコーが作った概念。本来、立法と行政と司法という枠組みの中で行われるべき政治が、ある種の危機の中で、そうした枠組みをはずれて、国民を個々の人格としてではなく、生命の集合体として扱い、効率的な管理の対象として従属させようとすること。

これが極端になると個人よりも集合体としての利益追求ということになり、ファシズム共産主義にもつながる。

こでBiopoliticsのカウンターパートとしてBiomedicineを持ち出すと、医学系のことだけに使う用語かと誤解をうみそうなのだが決してそうではない。ただし、現下の重大事であるCOVID-19に関して言えば、Biopolitics VS Biomedicineはある程度なりたつ話なので、医師でもある著者もこの本ではその路線で書いている。

つまり、個々の患者の治療が生物医学的(Biomedicine)であることに対して、政治が社会の規範、倫理を介して集団としての国民の健康問題に介入することはBiopoliticsと考えればいいだろう。COVID-19で考えれば、コロナ病床で実際に行われているのがBiomedicineであり、政府や専門家会議が感染者データなどを基にして国民生活にある種の超法規的な制限を加えている現状はBiopolitics。

それでもこの1年以上続く出来事をBiopoliticsから捉えてみて初めて納得できることは多い。

COVID-19に対して蔓延を防ぐために人流の抑制など公衆衛生的な手法(=非製薬的介入 NPI )が延々と続けられているわけだが、NPIについては感染症そのものでの死亡者数は大して減らすことはできない(これは日本ではなかなか明言されていない)が、集団免疫までの感染ピークをなだらかにする効果により病院の混乱や医療崩壊を避ける効果はある。一方で、NPIによる負の側面、人流の抑制で生業がなりたたなくなる、個人の権利や自由が冒されるということは当然ある。そこで現実的なBiopoliticsでは、NPIのアクセルとブレーキを巧みにあやつって医療崩壊を防ぎながら集団免疫を目指すということになる。つまりCOVID-19による死亡者数を減らすこと自体はNPIの目的ではないということ。

このNPIのアクセルとブレーキを利かせるために「新規感染者数」や「クラスター追跡」(これもあまり意味はなかった)などを情報として流し、知事がプラカードを振り回し、人々の不安をあおることも必要。

2020年5月に出版された本なのでワクチンの要素などが入っていないが、そこにワクチンという要素が加われば、集団免疫の早期達成によるNPIの早期終了が期待できる。

この全体図が腑に落ちれば、日本政府や自治体のやっていることも強(あなが)ち間違ってはいないわけだ。NPIの目的・方法論を知ることができ納得できた。

本質的には、本書の論点はそういうNPIの解説ではなく、「皆さん、現下のCOVID-19で強化された政府のBiopoliticsに馴致してしまわないようしましょうね」ということだと思うのだが、忘れやすい日本人はそこは大丈夫ではないか・・・とも思う。