還暦すぎのドクターに薦めたい―「記憶と認知症」をめぐる本
本連載は、還暦すぎの元外科医ホンタナが良質な「一般人向けの医学もの書籍」を読むことで、医学・医療の今にキャッチ・アップしていきたい、そしてそれを同世代の医師と共有したい!という思いから始めたブックレビューです。
これまでに月1回ペースで「神経免疫学」から「ウイルス・パンデミック」まで様々なテーマを取り上げました。
今回のテーマは還暦世代にとって、もはや他人事ではない「記憶と認知症」。さらに、そこから「記憶と人生」のつながりまで広がる世界を3冊の新書で追ってみました。
母の認知症をきっかけに―自分自身の対策を考えた
80代後半の私の母親が認知症になり、今はホームでお世話になっています。エピソード記憶ができないというのがメインの症状。
昔の大家族の時代なら、家族の中で子どものようにのんびり過ごして死を迎えられたのかもしれませんが、核家族の時代になって少人数家族では抱え込めない、独居もできない―そういう事情で「認知症」と病名をつけられての施設暮らしです。
高齢になってまったく新しい環境に放り込まれるストレスはいかばかりか…と、息子の私にも忸怩たる思いがあります。
さて、今回の1冊目「認知症の人の心の中はどうなっているのか?」は、著者が心理学系の人ということもあり、薬物治療ではないアプローチがなされています。
「認知症の人の心はどうなっているのか」、「その記憶の欠落を上手にカバーするにはどう対応したらいいのか」というケアする側や家族の側が必要とする、認知症の人の心のありようを教えてくれます。読むと気が楽になり、読後に、母のところに出かけて、話をしてみたくなるようなやさしさを感じる本です。
例えば、「他者には自分と異なる心があることがわからなくなる(心の理論)」「認知症は、自己と他者のアイデンティティをめぐる闘い」「明日がどうなるかわからない苦しみ」などなど、認知症の人の心がどうなっているのか示唆に富んでいます。
逆説的に、人間の自己アイデンティティの多くが記憶に依存していることに気づかされるのも事実です。記憶が欠落していけば、アイデンティティそのものが壊れていくのか・・・と最後は我が身を危ぶみました。
習慣形成を後期高齢者になるまでに済ませておくこと
続いて2冊目「老いと記憶 加齢で得るもの、失うもの」は、認知症となる前の段階、老化の中での記憶の問題を取り上げていますので、まさに還暦世代へのアドバイス満載の1冊です。
では、記憶障害で困惑しないためにはどうすればいいのでしょう。
本書によれば、60代の私にとっては今から認知症になるのか・ならないのかは、すでに脳内では決まっていて、その運命を変えることは無理らしいです。そんな世代にとっては、記憶の衰えをどうマネージしていくかということが主眼になります。
そこで本書では、「生活習慣を変えることで、記憶しなくてはならないことを減らす」、「スマホのリマインダーを利用する」などの具体的なアドバイスが示されます。
一番大切なのは、こうした習慣形成を後期高齢者になるまでに済ませておくということです。そこを過ぎたら習慣そのものが変えられなくなってしまうようです。日常に追われて習慣の変容に取り組めないドタバタした60代ではダメだということですね。ある種の終活とも言えます。
ITや電子ガジェットを取り入れ記憶の外部化をはかる、そんな習慣を身につけたいと思いました。
記憶こそが自己アイデンティティ―新しい視点からの気づき
3冊目にご紹介する「なぜイヤな記憶は消えないのか」は今回の一押しで、若い人にもおすすめの1冊です。
日々の出来事が人生をどう形作るか――考えさせられる好著と言えます。
今あなたが自分の人生の成り立ちを説明しようとしたときの、その物語(著者は自己物語と名付けています)。それこそがまさに、皆さんが自分の記憶の中から振り返り得る、皆さんの人生そのものなのです。
自分自身の人生とはリアルなものではなく、自分の中にある記憶に過ぎないという視点の新しさ。考えてみれば当たり前なだけに、新鮮な驚きでした。
われわれは人生において無数の出来事を経験しますが、それらすべてを記憶するわけではなく、今の自分=自己物語に都合のいい記憶だけが選ばれて残り、それによってさらに自己物語が改訂・強化されていきます。
つまり記憶と人生観の間にはフィードバックの環があり、記憶は事実そのものというよりも、事実から自分が認知して意味づけしたものを記憶したものなのです。
ゆえに、現在の自己物語が明るければ明るい記憶が残り、さらにポジティブなフィードバックを起こすことができます。たとえ悪い出来事だったとしても、それが将来のより良い出来事につながる・つながったと認知しなおすことで、記憶自体も変容させられます。
人生を肯定的に振り返ろう、記憶をポジティブに回そう――それが過去だけでなく、未来の人生をも明るくしてくれるのです。
今の自分は、自分が記憶している自分にすぎないという視点に立てば、明るくハッピーな記憶を強化できる生活習慣を、習慣変容力が残っている間に身につけることが大切です。
そして、その先、記憶が失われてアイデンティティも失われていき、認知症の世界に入ったとしても、自分の中にハッピーな気分を持ち続けることが可能かもしれない、そうすれば、いわゆる好々爺といわれる老人になっていく・・・と記憶に関するこの3冊の書籍はきれいに連環しました。
認知症の第一人者、長谷川先生が認知症になった!
記憶と認知症についてあれこれ考えていたら、NHKのある番組に出会いました―NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」です。(リンク先のウェブサイトは同番組を基に制作されており、読み応えがあります。お薦めです)。
認知症の臨床と研究の第一人者である長谷川和夫先生が、80代後半を迎えて認知症になったのです。認知症専門医が認知症になっていく過程で知る、認知症の真の姿とは・・・。日本で認知症のテストといえば、例の「100から7ずつ引く問題」などの「長谷川式認知症スケール」ですよね。
その長谷川先生が認知症になり、番組の収録期間の中で病状が進行していく姿は驚きでした。
そんな長谷川先生の若き日から現在までの道のりをたどりながら、認知症が進んでいく過程における先生の思いを、猪熊律子さんが聞き取りまとめた本が「ボクはやっと認知症のことがわかった」です。
先生の思いの中でもっとも大事なのは、認知症の本質は「ボケること」そのものではなく、それによって引き起こされる「暮らしの障害」=「生活障害」なのだということ。先生は、「年をとるのは自然の経過だから、『ああ、自分も認知症になったんだな』と受け入れて、上手に付き合いながら生きていく」と言っています。
だから周囲の者が、認知症の暮らしの障害がどんなものなのかを理解し、生活を共にするときの知識や技術を知っておいてくれたならば、認知症の人にとっての生きやすさはかなり違ってくるのです・・・それを称して「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」・・・と。
しかし、ここまで読んで私は思いました。先生が言うところの「検査や薬ではなく、パーソン・センタード・ケアの精神で生活の障害を支援しつつ、老化の進行に付き合い、死に寄りそう」・・・それって結局、昔の日本の大家族の中で普通に行われてきたことなのです。
大家族の中であったなら、そして今ほど長寿ではなかったなら、認知症の人は家族とともに自然体で暮らしながら、死を迎えられたのではないかと。それを長谷川先生が一生かけて疾病化し、病名も変え、診断手法も考え、医療化したことが本当に良かったのでしょうか。
結局、誰しも老化は避けられず、脳の老化が先行する場合もひとつの自然経過であるのです。そして長谷川先生はそれを身をもって示してくれた、ということではないのかと思いました。
「認知症を病気にしてしまったことが本当に良かったのか疑問だね・・・」と、私が食卓でこのような理屈をこねていたところ、現実的なわが妻はこう言いました。
「病気と認められたからこそ、家庭と切り離すことができて良かった、家族は救われた」
ここで初めて、多くの女性にとって親世代や夫の認知症を介護することは、老後に降りかかってくる災厄でもあったのだと気づかされました。長谷川先生も、認知症になりながら快適な生活を過ごせるのは、奥様とお嬢様という2人の介護者の支えがあるからでしょう。
長谷川先生も私も、まさに昭和男の「ボク」目線で認知症がわかったような気になっているだけだったのかもしれません。
まとめと次回予告
テレビやウェブサイトで拝見する、認知症になった長谷川先生の明るい好々爺とした印象は、前向きで明るい人生をおくってきた証しなのでしょう。
認知症になる・ならないは還暦すぎればもはや変えられない運命であるのなら、明るい記憶をポジティブにフィードバックしながら前向きで溌剌として日々を過ごすこと、これしかありません。
年初からの新型コロナウイルス感染症の感染拡大が世界的に続いています。このコラムを書いている5月20日は緊急事態宣言が解除されつつあり、少し明るい兆しがみえてきたところです。一連の出来事を歴史的に評価できるのはいつになるでしょう。
パンデミックの歴史的な評価ということで言えば、エイズ・パンデミックについてはすでに名作ともいえるドキュメンタリーが数多くあります。これらは、コロナ後の世界を考える上で参考になるのではないでしょうか。
次回はその中から「エイズの起源」、「安全という幻想 : エイズ騒動から学ぶ」、「エイズを弄ぶ人々」の3冊を紹介してみたいと思います。