El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

私の本棚(7)神の手に赤ひげ…時代を駆けた医師人生

還暦すぎのドクターが薦める医学読み物3選

 本連載は、還暦すぎの元外科医ホンタナが良質な「一般人向けの医学もの書籍」を読むことで、医学・医療の今にキャッチ・アップしていきたい、そしてそれを同世代の医師と共有したい!という思いから始めたブックレビューです。

 これまでに月1回ペースで「神経免疫学」から「がん」まで、様々なテーマを取り上げました。

 第7回となる今回のテーマは「同時代の医師列伝」。私自身の指導医が題材になった小説や、巨大病院グループを作った熱量100%の熱い男の評伝など、圧倒的なパワーをもった医師に魅せられる、珠玉の3冊をご紹介します。

 優秀な医師たちが時代の流れの中でどう生きたか、それは同時に我々の時代の医学・医療の実像を浮き彫りにしてくれます。そして現在の医療も、その延長線上にあることを気づかせてもくれるのです。

「神の手」と呼ばれた、私の指導医―移植医療の始まり

移植医たち (新潮文庫)

移植医たち (新潮文庫)

  • 作者:谷村 志穂
  • 発売日: 2020/02/28
  • メディア: 文庫
 

  平成から令和になって間もなく丸1年です。妻からは「昭和の夫」と揶揄されることの多い私。計算してみると、昭和を31年間、平成も31年間生きたことになり、きっかり50%が「昭和」な夫です。

 昭和といえば、私が医学部を卒業したその終わりの頃は、臓器移植ブームの時代でした。「外科医になるなら、移植医を目指すべし!」そんな時代です。

 その頃をノスタルジックに思い出すことができるのが、谷村志穂さんの小説「移植医たち」です。オリジナルは2017年刊行でしたが最近文庫化されたので、ぜひ読んでみてください。

 「移植医たち」は、日本の肝臓移植医療をスタート地点から描いた物語。大学名や個人名は架空のものになっていますが、小説の主人公である「佐竹山教授」は、私が医師になったときの最初の指導医だった「T先生」がモデルです。

 T先生が日本に見切りをつけて肝移植のメッカ、米ピッツバーグ大のスターツル教授のところに行ったのが1985年、先生が38歳の頃です。私はたぶん、先生の指導を受けた最後の研修医です。

 渡米後、T先生はアメリカでも超人的ながんばりを見せ、「神の手」と呼ばれるまでになります。そのがんばりのすごさは、ぜひこの本で読んでください。私は先生の指導を受けたときのことがいろいろフラッシュバックして感涙してしまいました。

 T先生、すでに70歳過ぎですね。その生きざまは、「大学医局を飛び出して、アメリカで教授に」という絵に描いたような成功をおさめました。それでもアメリカでの地位をなげうって、日本の移植医療のために帰国。ところが開拓者魂を発揮できると思ったH大では、日本的な嫉妬と陰謀とマスコミに翻弄され、歳月は流れ、移植医としてリタイアの年齢へ。

 たとえどんなにパワフルであったとしても、一人一人の人生は時代の流れの中でこのように消費され、埋没していくものなのでしょう。すべての人の上に、無常の世は流れます。

 本文を引用しますと、


佐竹山は、新人を捕まえるとペアを組み、深夜までかかって治験のデータ収集を続けた。夜が遅くとも、翌朝6時半には出勤する。・・・ペアになった新人は次々体調を崩し、中には吐血や下血の症状を訴える者まで現れ、佐竹山は、大学ではもはや変人扱いだった。

 

 とあります。ここに出てくる「新人」は、まさに35年前の私です(吐血や下血は大げさですが)。

 「臓器移植法脳死に際しての臓器の移植に関する法律)」の成立(1997年)・改正(2010年)などのたびにマスコミが騒ぎ、センセーショナルだった移植医療。20年経った今、脳死移植で年間300例ほど行われています。その内訳は、腎104例、肝57例、心44例、肺45例、膵35例(2015年)です。移植医療は、ある程度確立した医療になったということでしょうが、そのニーズは日本ではこのくらいだったということなのかもしれません。

 移植・・・その派手なパフォーマンスに憧れた、あの頃。そこに飛び込んだT先生と、飛び込めなかった私。「移植医たち」は、T先生の35年間を追体験できる小説でした。T先生、もうお会いすることもないかもしれませんが、お元気で。You are my hero, forever ・・・

性転換手術界の赤ひげ―死亡事故が変えた激動の生涯とは

 

ペニスカッター:性同一性障害を救った医師の物語

ペニスカッター:性同一性障害を救った医師の物語

 

 次は、性同一性障害の治療に携わった医師の物語。LGBTがここ数年、すっかりポリティカル・イシューになってしまったことで、性同一性障害治療の現場のリアルがわかりにくくなってしまいました。ところが偶然、性同一性障害の治療の歴史を現場感覚で理解できる本を見つけました。回の2冊目「ペニスカッター」がそれです。

 「ペニスカッター」というドッキリするようなタイトルですが、これは出版社が目を引くようにつけたものでしょう。その内容はタイトルの印象とはまったく異なり、和田耕治先生という性同一性障害治療の黎明期を駆け抜けた一人の医師のライフ・ヒストリーです。テレビタレントのは〇な愛ちゃんの性転換手術を執刀した先生といえば、知っている人はピンとくるかも。

 著者紹介文の一部を以下に引用します。


 和田 耕治(わだ こうじ)1953-2007年。性転換(性別適合)手術の第一人者で、大阪市北区の美容・形成外科「わだ形成クリニック」の院長を務めた。1996年に大阪で開業。

 1997年に日本精神神経学会が「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」を策定した後も、ガイドラインに束縛されることなく、患者の希望に沿い性転換(性別適合)手術を行った。その手術数は国内で600人以上。

 学会や社会からは異端視されたが、ジェンダーに悩む多くの人々に尽力的かつ安価に、医療手術・整形手術・性転換(性別適合)手術などを行った。2007年、自身の病院で突然死した。

 

 この和田先生がブログなどに書き残した文章を、妻であった深町氏がまとめたのが本書です。性転換手術の現場がリアルに体感できます。

 日本では1965年の「ブルーボーイ事件」以来、性転換手術がタブー視されるようになり、手術を受けるにはタイやフィリピンで受けるしかない状態でした。その後、埼玉医大精神科の活動などによって、日本精神神経学会が1997年に性同一性障害の診断と治療のガイドラインを策定し、20年かけて最近の状況にまで変化してきました。性同一性障害に対する世間の、そして医療界の反応は、まさしく平成の30年間に激変したのです。

 和田先生はこの変化以前に患者を思う心から、さまざまに独自の工夫を凝らして、低価格で性転換手術を開始しました。まさに性転換手術界の赤ひげであり、ある意味、因習打破の突破者でもありました。性転換を望む方々にとって「神様・救世主」と言われるようになっていく過程は、読んでいて快哉ものです。

 しかし、その活躍は長くは続きませんでした。和田先生がつまずいたのは、麻酔原因による2例の死亡事故でした。外科医が麻酔もするのは一時代前には普通のことでしたが、一人で麻酔をしながら手術もするという状況は、やはり事故が起こった時に大変です。医療事故に対して警察が動くという風潮が、ちょうど出てきたころでもありました。

 自分は間違っていないという信念から、和田先生は裁判(民事・刑事)でも自ら矢面にたってがんばり、その間にも手術を執刀するという激務の日々。その後には賠償金などに悩まされることになります。さらに延々と続く検察の捜査。起訴猶予処分。多忙さは解消されず・・・そんな中、54歳での突然の死。

 美容形成外科の現実や、性転換手術の現場感覚を感じながら読み進み、最後は主人公である医師の死。パワーのある医師であっても、医療はやる気や善良さだけではやっていけない部分もあるということでしょう。いま一歩のリスクマネジメントができなかったものか。

 LGBTの権利運動の中で、治療対象としての性同一性障害は抽象化されてリアリティを失っていますが、本書を通してその治療の現場を具体的なものとして知ることができました。

 しかし地方出身の医師が自らの正義感で邁進し、死に至る。和田先生がまさに私の出た高校の4年先輩だということもあいまって、他人事とは思えないメランコリックな読後感になってしまいました。

巨大病院グループを築いたあの医師と、取り巻く人々の群像劇

ゴッドドクター 徳田虎雄 (小学館文庫)

ゴッドドクター 徳田虎雄 (小学館文庫)

 

  

 現代医師列伝、最後に取り上げるのは「ゴッドドクター 徳田虎雄」。ご存じ、70病院を越える巨大病院グループ徳洲会を一代で築き上げた、徳田虎雄氏の評伝です。この評伝は、単なる徳田虎雄徳洲会病院の記録にとどまりません。

 彼が医師になった1966年は高度成長期の真っただ中で、日本の医療も大きな転換点を迎えていました。高度成長にともなう人口の都市集中の結果として、人口急増地域は医療機関が足りず医療砂漠が生まれる一方、労働者を送り出した地方は人口が減って高齢化が進み、こちらも医師が消えていく。今に至る医師偏在の原型がそこにはありました。

 徳田氏と徳洲会の医療変革運動は、高度経済成長による医療のひずみを解消するための社会的揺り戻しでもあったのです。

 徳田氏は、1973年に大阪府松原市に徳田病院、1975年に徳洲会を設立した。そして、野崎徳洲会病院(大東市、1975年)、岸和田(1977年)、八尾(1978年)、沖縄県南部(1979年)と続々とオープン。全共闘世代で大学を離れた医師やアメリカ帰りの医師が、徳田氏の魅力に引き寄せられるように結集し、そこから全国への展開はさながら戦国武将の天下統一劇を見るようです。

 もうひとつの要素は、著者が「日本のシチリア」と呼ぶ徳田の故郷である徳之島を含む、奄美の人と風土と政治で、こちらはまるでゴッドファーザーの世界。優秀な医師が島から輩出され、徳田氏のもとに集まります。

 一方で、徳洲会の巨大化や徳田氏自身の政治狂い、バブル経済とその崩壊、1995年の阪神淡路大震災、2002年のALS(筋萎縮性側索硬化症)発症、2011年の東日本大震災と、同時代に生きる医師の壮絶人生が活写されており、本を置くことができず一晩で一気に読んでしまいました。

 2013年には妻子への後継問題が原因で、懐刀であった事務総長を切る(解雇)と、この元事務総長と徳田ファミリーが訴訟や告発のバトルを展開。当時の東京都知事猪瀬直樹徳田毅(徳田氏の息子・当時衆議院議員)から5000万を受け取った(借りた?)という事件もこの頃です。

 結局、徳洲会は2017年に徳田氏や徳田ファミリーの関与から離れ、徳田王国は崩壊。それでも徳洲会は71病院、年商4200億円、約3万人の職員を擁する日本最大の病院グループとして歩み続けています。

 その栄枯盛衰のドラマは一見、徳田氏の熱量の巨大さだけが巻き起こしたようにも見えます。しかし本書を通して徳洲会の歴史をその時代背景とともに複眼的にながめれば、それは徳田氏の磁力に引き寄せられた医師・看護師・薬剤師・事務職員たちが繰り広げる、シェークスピアさながらの群像劇です。

 やがて登場人物たちは一人また一人と、徳田氏と対立して決別していき、決別した彼らのその後の人生も、また深い余韻を残します。

 現在も、湘南鎌倉総合病院の特別室で療養を続けている徳田虎雄氏。彼の人生と交錯した多くの医師たちの生き様、徳之島。様々な切り口がある、どこをとっても一級の評伝で書評だけでは伝えきれません。必読です。

まとめと次回予告

 3人の医師の人生に共通するのは、とにかく目標に向かって邁進するパワー。私も医師になりたての頃はそんなパワーにあこがれていました。

 こうして彼らのその後の人生まで読んでみると、人生の無情・無常を感じないわけにはいきません。しかし逆説的に、だからこそ眼前の目標に向かってがんばる気持ちは持ち続けたいと思いました。今、この瞬間を生きることこそが重要なのだと。

 今まさに新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)が世界的に大流行していますが、こういう時こそ温故知新。次回は、過去の新型インフルエンザやSARSパンデミックの時に書かれた本を読みなおしてみたいと思います。

 ラインナップは「新型インフルエンザ 世界がふるえる日」、「感染症と文明―共生への道」、「インフルエンザハンター」の予定です。本記事が掲載されたころにはすでにCOVID-19の流行が沈静化し、「タイムリーじゃなかったね・・・」と言われることを、むしろ望みつつ。