El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

未完のファシズム

 軍人文書の掘り起こし作業に脱帽、ただし牽強付会な資料使いには注意

 日清日露戦争あたりから太平洋戦争後まで軍人の書いた文章を古書などで入手し読みこんで一定の見解を作り出してくれて、なかなか面白い。読んでいて、気づかされたのは、日露戦争の頃に陸軍大学校に在学していた20代の若きエリートが太平洋戦争では50代となり軍首脳であったということ。平成になっての30年間を思うと、日露から日中戦争までの30年、敗戦までの40年という時間の流れの速さ。

天皇しらす国」であるという帝国憲法ではリーダーシップの法的根拠が希薄だった、ゆえに元老という模糊としたリーダーシップが成立し有効だった。それは当の元老たちは認識していたのか、いなかったのか?いずれにせよ元老がいなくなるとリーダーシップ不在の国になった。ここもよく腑に落ちるし、分析はみごと。

国民性としての「関ケ原より桶狭間」というのは面白いが、これは日本だけでもなさそう。いわゆる判官びいきは世界的なもの。

残念なのは、本書前半を占める、青島戦役~タンネンベルク信仰~小畑敏四郎とつないで、「持たざる」が故の逆説的な殲滅戦思想という話は、そういう著者の考えを言いたいがための牽強付会な資料の錯読があるような気がした。原資料の欧州戦争叢書「殲滅戦」の原文が部分的に引用されており、「候文」で読みづらいのだが、それを現代文化することなく「つまり」でつないで「殲滅戦思想は弱敵相手には有効だが優秀な敵には役にたたない」と小畑が書いているようにまとめている。しかし、この原文はわたしにはどうしてもそうは読めなかった。ここの小畑は「(優秀な敵に対して殲滅戦でいくのはあたりまえだが)弱敵にそこまでエネルギーを使う必要はないという意見もあるだろうが、弱敵でも殲滅戦でいくべき」と言っていると読むほうが素直なのでは?

著者に言いたいポイントがあって、それに合う資料(史料)を探してしまう。あるいは、発掘資料を読むときに、自分の中にある考えに沿わせて読んでしまう。よくあることなのでその部分は割り引いて読むのかな。