ありふれた日本近代史観・・
ポール・クローデルの言う、日本の意思決定主体がだれなのか、どこにいるのか見えてこない、という(これ自体、非常にポピュラーなテーマだが)ことを元老・元勲の後継者不足で説明しようとしている。それ以前の日本歴史には意思決定中心が常にあったというのか?大きな歴史的大転換の直後は意思決定主体が比較的わかりやすく、時間の経過とともに既得権者の権力維持のために意思決定中心がボケてくるというのは、日本史を通じて(あるいは世界史的にも)共通して見られることではないか。やや近視眼的のような気がする。
鎌倉幕府や関ヶ原や明治維新のようにガラガラポンが起こったときに旧勢力がかなりの程度一掃されることでリフレッシュすることが必要。太平洋戦争敗戦では、敗戦後の東西冷戦という環境下でそれがおこらなかった・・と話は白井聡氏の「永続敗戦論」へとつなぎたい。