もうこのあたりの小説はKindleのほうが読める
「来る日も来る日も同じことを繰り返している農業という労働。しかし、仔細に見ていると少しずつ労働の種類は変化している。もう忘れた日にして置いた働きが芽を伸ばし、日日結果となって直接あらわれて来ているものを採り入れ、次ぎの仕度の準備であったり、仕事にリズムがあって倦怠を感じる暇もない。他に娯楽といっては何もなさそうだが、そんなものは祭だけで充分忍耐の出来ることにちがいない。特に都会化さえしなければ農業自身の働きの中に娯楽性がひそんでいそうである。」(『夜の靴 ——木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)』(横光 利一 著)より)
農業を「査定」に置き換えてみてもいい。「査定」自身の中に「娯楽性」が見いだせないようであれば何十年も続けられはしないのである。自分の仕事に娯楽性を見出すこと。よく、「好きなことを仕事にせよ」というが、それは難しい。好きなことは経済的に見合わないことが多いからだ。仕事はそれで食べていけるから仕事なのだ。そして、好きなことを仕事にするという逆説ではなく、どんな仕事でもとことん突き詰める中に面白み・娯楽性を感じることができるようになる。それが仕事の奥義なのではないか。
感心するのは横光の観察眼と記録(記憶)、たぶん折に触れメモをとっていたとは思う。このネット時代こそそうしたメモはもっと容易なはずなのだが、ネットの情報に追われて自らが見たり、考えたりしたことをとどめておく力がなくなっているようだ。引き続き 「上海」をKindleで読む。