バイリンガル者の内なる言語対立
バイリンガルあるいはセミリンガルという言語状態に興味を持っている評者にとって、ジュンパ・ラヒリがベンガル語と英語という内なる言語対立にイタリア語という第三極を持ち込むことで新境地を見出そうとする、その試みの前向きさに驚かされた。二つの言語にさいなまれるということはそれほど苦しいことなのかと気付かされる。英語で高等教育を受け、ピューリッツァー賞まで獲得したラヒリにとってさえバイリンガルであることの苦しさがある。特に、ラヒリのように母語ではない方の言語で高等教育をうけ日常活動を行うことは、気楽に「バイリンガルでよかってね」では済まされない心理的影響があるのだろう。日本で、少し前に話題になっていた幼少期からの英語教育のリスクを間接的に教えてくれる。帰国子女や残留孤児の子どもたちにおいても母語と生活語が異なることがどんな心理的負担になるのか考えなくてはなるまい。そのような多くのバイリンガル者たちがラヒリのような知性をもっているわけではないのだから。