El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

「社会(コンヴィヴィアリテ)」のない国、日本

社会のかわりに会社がある国

「「社会(コンヴィヴィアリテ)」のない国、日本」(菊谷和宏・図書館本)読了。今日、図書館で借りてきた(というか自分がリクエストして買ってもらった本なのではあるが)が、読了。共生(コンヴィヴィアリティ)関連なので、イリイチ、渡辺京一つながりである。

ドレフュス事件大逆事件、登場人物であるゾラ、デュルケーム幸徳秋水さらに両方の同時代人である永井荷風、彼等の文章を使いながら日本にはフランスとちがって社会(コンヴィヴィアリティ)がないから、個人ベースで小さなことから積み重ねよう、ということに。

しかし、日本とフランスということではあるまい、また、国家と社会ではあるまい、現代においては国家に代わるものは企業であり、語呂合わせでいえば会社である。会社があって社会がない。この本の国家を会社に置き換えて読めばすーっとよくわかるのではないか。荷風が国家を変えられない自分にたいする諦めから戯作に転じるくだりは、まさに私自身が結局、会社を変えられない自分に対する諦めから・・という話のアナロジーである。