El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ボヴァリー夫人

 わたしもまた、ボヴァリー夫人

ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)

ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)

 

 フローベールボヴァリー夫人」を読む。これが読ませる。するすると読める。平易ではないのだがこの描写方法、リアリズムの嚆矢と言われているが、周辺を描きに描くことで心象を浮かび上がらせる。心理を描きに描くヴァージニア・ウルフとはまったく違う。話の展開はまさに「あるよね、こういうことって」。20050307

俗物とは。フローベールボヴァリー夫人」をあらためて読んでいるが薬屋のオメーの俗物性。わたしもここで何人かの典型的な俗物を見る。もちろん自分の中にも見る。以前に中島義道の「「時間」を哲学する」から引用した「あなたがある人を裏切ろうとする瞬間、騙そうとする瞬間、自らの卑劣な行為を自覚しながら「まあいいや」と呟く瞬間、自分の手を汚さずにことがうまく運び「しめしめ」と思う瞬間、他人の生命を犠牲にしても助かりたいと願う瞬間、他人を蹴落とすことを目指す瞬間、不幸に喘ぐ人を見捨てる瞬間、無能な人・不運な人を冷笑する瞬間、他人から称賛されて驕り高ぶる瞬間・・・<今>はすっかり剥き出しになっている。」…これって<今>が剥き出しになるのはその人間の俗物根性が見える時ということになるのではないか。20050309

フローベールボヴァリー夫人」を読んでいるが、若い時の夢や憧れが満たされないままに(そもそも夢は満たされるものではない?)現実の重さ、退屈さにどっぷりとつかってしまい現実的な俗物(オメーがその役回りですね)に堕してしまうのはまったくわれわれも同じこと。それを受け入れずに夢を追い続けて破滅してしまうエマ。多くの男性読者はエマを愛したり遊んだり棄てたりする男達を自分と重ねあわせてしまうのでしょう。現代のエマはもっとしたたかかもしれない。20050310

ボヴァリー夫人」読了。100年以上前とは思えない今日的テーマというか、時代がかわっても変わることのないテーマ。それを文章として刻みつけたところにフローベールの偉大さがある。ゲーテユゴーのように特別な人物、特別な時代背景ではない、市井の中にこそ真の人間の悲喜劇があるということ。20050311