El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

道元入門

目的と手段の関係を最近よく考える。若い頃はその時々の年代なりの人生の目的があってそれを成し遂げる努力をしてきた。受験や仕事や結婚など。そして中年にさしかかって次第に目的が失われていく。それは可能性が次第に縮小しているということで自分の非力さやこれまでの人生の努力不足に原因があるのかなと漠然と思っていた。しかし例えば父母や身近な先達の人生を考える。老年になって何か目的はあるのだろうか。健康・子供の成功や日々の安楽。そうしたものは目的というよりも生きていることそのもののような気がする。目的を成し遂げてきたそのあとには日々生きることだけが残るのだろうか。これはちょっと寂しい。そう考えていた時に「道元入門」を読んでいてこれとまったく同じテーマを扱っているところに出会った。P36「修行の本務とは?」
ミシュレ「魔女」を読了。下巻(第二の書)は魔女の話というよりはイエズス会など権威をかさに着て民衆、ことに女性をくいものにしていた破戒僧の話が中心になる。その悪辣さは驚くべきで教会権威と王権が微妙に協調しながら圧政を遂行するさまは驚くばかり。日本では江戸中期にあたる。当時の日本の人権がフランスよりましだったかといえばそうでもないだろう。ミシュレの記述はときどき暴走するがそれもまたよい。