漱石が死んだ歳(49歳)に自分がなる前にひととおり読んでおきたいと思っていた。この年わたしは46歳。下記の日記に「こころ」が入っていないのはなぜだかわからない。少し前に読んでいたのかも。
明確な読書指針を見出せないまま、電車ではなんとなく「猫」を読んでいる。まあ読み終わりそうだが、漱石全部というのはむずかしいやもしれぬ。そういえば、高校ぐらいの時に日本文学全集の3分冊の漱石をかったことを思い出した。20030716
「坊ちゃん」を読了。併せて、「草枕」「三四郎」をリブロにて新品で買う。20030805
「草枕」を読む。やはり文庫は読みやすい。電車通勤と文庫本は日本の教養の源泉なり。教養といえば「草枕」、漱石の該博な教養があふれる。20030808
昨夕「三四郎」を読了。なるほど、アンチクライマックスというか、「草枕」に似たエンディングだ。まあ、起承転結があるというのではなく、ある人生の心象風景をきれいに切り抜いたというような書き方である。しかし、電車通勤の時間があるからこそ読める。習慣とはまさに力ということ。夏休みの間は結局ほとんど読めなかった。往復で1時間半は読んでいられる貴重な時間だ。20030826
「それから」を読了。あれ、これって読んだことある、という気がするのはデ・ジャブ?決断力のなさと見通しの甘さを時代のせいにして煩悩する軟弱近代青年がよく描かれている。「門」にとりかかる。どこまで読み進むべきか。20030901
そもそも人間のアイデンティティとはなにかを考えてみる。 「父母未生以前、本来の面目」 において・・うう、今日は時間がない。また明日、「門」を読了してから再度トライしてみたい。20030903
「門」を読了。中年期の人間像としていかにもぴたりとはまり、自分の胸にもせまってくる。が、しかし、ここまで読み進んでみると、総論として「辛気臭い」といわざるをえない。近代の知性の苦悩、近代市民社会の矛盾、そういったものが感じられるのではあるが、人間本来にあるもっとデタラメな部分のもつ熱感というものがあってもいいのではないかと思う。織田作之助の作品がもつそういった熱感がことごとく近代的知性に置きかえられているという感じがいまのところ強い。20030904
「虞美人草」を読了す。道義に生きる、真面目に生きる。うまく生きることと真面目に生きることの違い。勧善懲悪的といえばそのとおりで、馬琴的といえばそのとおりなのだろうが、結構この単純さが身にしみる。小野の生き方に自分を見るということなのだろう。甲野的と小野的と中庸をとりうる宗近的と類型的ではあるが人はこういった人物類型の種々相をさまようものかもしれぬ。文学的にはいまひとつというのもわかるが、自分としては秋晴れの朝の電車で感服の一冊であった。20030919
「彼岸過迄」を読了。なるほど、いくつかのエピソードをつなぎあわせて全体を構成する力量や、人生に影を落とす自分の血の部分の表出など、さすが漱石はうまい。「行人」着手。20030930
立川への電車で「行人」を読了。暗示的ではある。20031006
数日前に冠雪せる富士を間近に望む。「道草」読了。自分の「今」があって、それは過去から多くの人間の関わりを無視することはできない。親兄弟はもっとも深い関わりであろう。一方、自分自身でも自分の「今」に、若き日の夢を重ねれば失望するところ多いわけであるから、親兄弟はなおさら自分に過剰な期待とそれが達成されない落胆があるのだろう。しかし、これは私にのみ起こったことではなく、人間が連綿と繰り返してきたことの一つであるのだ。20031009
「野分」読む。20031020
「明暗」読了す。20031030
江藤淳著「決定版 夏目漱石」を電車で読んでいる。漱石を一通り読み終わったので評論を読んでいるわけだ。文芸評論をどうとらえるか、今まで自分の中には明確なものがなかったがこのジャンルはこれでなかなか奥が深そうである。日本では、小林秀雄、江藤淳という系譜があり最近ではこれに柄谷行人を加える。小林秀雄の「様々なる意匠」は読むべきであろう。一方で、寝る前には「暗夜行路」を読んでいる。一週間もあれば読めそうである。こうやって名作を読めばそれなりに思索が深まり自分の書く文章も少しずつはよくなるのではないかという期待もある。20031105